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特集 第20回 坪内逍遙大賞(2)

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岐阜県美濃加茂市

■文学者から演劇人へ
明治18年、逍遙(しょうよう)は近代小説の理論書である『小説神髄(しょうせつしんずい)』を刊行します。これは江戸時代からの勧善懲悪主義を捨て、人間の内部を写実的に描写する小説に芸術としての価値があると認めた先進的なものでした。
同年、『小説神髄』の理論の実践書として『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』を刊行。当時の学生の生きざまを写実的に描写した小説として多くの注目を浴び、逍遙の文名は一挙にあがりました。その後も、『妹と背かがみ』から『細君(さいくん)』などの小説を書き続けましたが、文学上の悩みからその後小説の筆を絶ち、演劇の革新に専念していきます。幼いころから演劇好きだった逍遙は、明治20年ごろから演劇改良に向けて意欲を燃やし、演劇に対する理論の研究と実践書であるいくつかの脚本を完成させました。
歴史を素材にした史劇では、『桐一葉(きりひとは)』『沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』『牧(まき)の方(かた)』『二葉(ふたば)の楠(くすのき)』を発表。舞踊本来の自由な姿を取り戻すための新舞踊劇運動では、舞踊劇の理論書『新楽劇論(しんがくげきろん)』と『新曲浦島(しんきょくうらしま)』『お夏狂乱(なつきょうらん)』など11種類の作品を発表しました。
明治38年には、大隈重信(おおくましげのぶ)を会頭と文学者から演劇人へする文芸協会が設立。明治42年に改組し、逍遙は名実ともにその責任者となり、目標を演劇に絞り再編成します。この頃、逍遙は近代的な演劇を確立しようと演劇研究所をつくったり俳優の養成に乗り出したりと精力的に活動しています。こうした動きは「日本新劇運動」と呼ばれ、逍遙はその中心となっていきました。
また、「社会の芸術化」を目指し、野外の自然をそのまま舞台として劇を行う「ぺージェント」を提唱したほか、「家庭の芸術化」を目指した新児童劇も演劇芸術向上の目的で提唱しました。さらに、歌舞伎の文献的研究やシェイクスピア劇場との比較研究なども行ったのです。
昭和3年、逍遙の念願であった演劇博物館が早稲田大学に完成します。古稀(こき)の賀(70歳のお祝い)と『シェークスピヤ全集』40巻翻訳完成記念として各界有志の協賛により創設されたもので、逍遙はその建築資金や収集品を寄付しました。

■熱海と逍遙
明治45年、逍遙は熱海へと移り住み、大正9年には自身の住居を新築します。樹齢300余年と言われる柿の大樹が2本あることから「双柿舎(そうししゃ)」と名付けられ、早稲田大学での教え子である會津八一(あいづやいち)が玄関門にある扁額(へんがく)の文字を書きました。
昭和10年、風邪から気管支カタルを併発した逍遙は同年2月28日、晩年を過ごした熱海で眠るようにこの世を去りました。墓地は逍遙の希望で、双柿舎に近い海蔵寺境内に造られました。
熱海は、晩年、夫人とともに静かに過ごした場所であり、「海と山と田園とを兼ね備へ、都会的設備と田舎の趣味とを両立せしめている」(『熱海に関する追憶』より)と述べています。逍遙の死は新聞で大きく取り上げられ、「博士の演劇文学に残した足跡は余りに大きく我国文学史上の一の高峰的存在であった。」(昭和10年3月1日東京朝日新聞・夕刊)と称えられたのでした。
参考資料:みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアムホームページ 人物顕彰内
「郷土の偉人 坪内逍遙」

◆information 逍遙博士の功績を次世代に伝えたい 坪内逍遙博士顕彰会
坪内逍遙博士顕彰会は、逍遙博士の生誕祭をはじめ、命日の前後に開催する「しのぶ会」や逍遙公園(太田本町)の清掃活動などを行っています。逍遙博士の残した功績を、次世代に伝え残していくことで、市民の皆さんが、逍遙博士を「誇り」に感じていただければと願っています。
坪内逍遙博士顕彰会では、一緒に活動いただける会員を募集しています。入会を希望する人は、事務局(みのかも文化の森)までご連絡ください。

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