■交通事故ゼロのまちを目指して
戦後から昭和40年半ば頃にかけてのいわゆる「交通戦争」と呼ばれた時代。自動車保有台数の増加や道路整備の進展を背景に、交通事故の増加が社会問題として全国規模で取り沙汰されていました。これは中部経済圏の中枢都市として道路網の拡充を政策の柱に掲げ、推進していた美濃加茂市も例外ではありません。昭和36年の「警察署別路線別交通事故発生状況(岐阜県統計書)」によると、加茂管内での交通事故件数は県内で8番目に多い225件にのぼり、特に国道21号や主要県道での事故が頻発していました。
こうした状況下で、昭和37年6月15日に市交通安全対策推進委員会が発足し、第1回会議が開かれます。毎月一日を市の交通安全日とするなど、多様な対策方針が決まり、市役所には交通事故の撲滅を期して「交通安全」の大垂れ幕が大きく掲げられました。
一方で、この運動は昭和35年に財団法人として再発足した岐阜県交通安全協会などの各種団体にも支えられます。同協会加茂支部の昭和38年度の経過報告によると、有線放送による広報や安全しおりの配布などによって交通安全を喚起したり、時にはカラーペイントを購入して道路にセンターラインを引いたりするなど積極的な活動を行っていたようです。
しかし、その後も交通事故数は目に見えて減少したわけではありませんでした。市はこれから気動車基地の建設や国道41号線の整備を進める際、事故の危険性が一層増大することを懸念し、昭和40年5月に市における初めての都市宣言である「交通安全都市宣言」をします。これに伴い市内3カ所に「宣言塔」を設置したり、町ごとの交通安全教室を開設したりするなど、多方面からの政策によって市民の協力を仰ぎながら、安全意識の向上をさらに強く呼びかけていきました。
こうした市の総力を結集した取り組みが徐々に実を結んだのか、昭和46年を一つのピークに、市内の交通事故数は大きく減少していきました。
◆[Pick Up]「太田橋の人道建設」
昭和2年に太田・今渡間に建設された太田橋は、当初から道幅も狭く、人が渡るには極めて危険な状態でした。『人道添架要望書(昭和40年)』は、この橋に新たに歩行者や自転車専用の通路を架橋することを求めた陳情書です。当時、交通量の増加により通行者が命の危機にさらされている現状を危ぶみ、一刻も早い対処を訴える動きがあったようです。
現在では平成16年に建設された側道橋が、日々の安全な通行を支えています。
問合せ:みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアム
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