■ミサイル落下事件
昭和44年7月18日、米軍機が岐阜の山中にミサイルを誤って落としたとの情報が市当局に飛び込みます。米軍から外務省を通じて防衛庁に入った連絡によると、同日午前11時21分頃、落下地は三和町廿屋から七宗村神か淵ぶちにかけての山林とされました。市では農協有線放送を使用して早急に注意喚起がなされ、特に三和町各戸には、山への立ち入り禁止と、発見した場合は近づかず届出をすることが触れられました。安全装置があるため爆発の心配はないとの当初の報告でしたが、この出来事は、市内をはじめ関係地域の住民たちを不安と恐怖に陥れたことでしょう。
この事案に対し、19日早々に岸東八郎(きしとうはちろう)市長から県知事への申し入れがされ、同日夕方から自衛隊による捜索が開始します。市役所の行政文書「ミサイル落下事件綴つづり」には、当時の状況が克明に綴られています。三和連絡所に捜索本部が置かれ、道案内として地元の消防団や市職員が動員されたようです。廿屋公民館と空き家などは隊員の宿舎として充てられ、風呂は付近の家に依頼し、夕食時には炊き出しが行われるなど、地元の人々もさまざまな形でこの事件に巻き込まれ、戦々恐々とした日々を過ごしていたことが想像されます。
再発防止と根本的な対策のため、23日に市長と市議会議長が上京し、渡辺栄一(わたなべえいいち)代議士とともに連絡説明と運用航空路線の変更を防衛施設庁に申し入れしました。これを受けて、29日には在日米軍参謀長により航空路線の日本海側への変更や、訓練には模擬弾を使用することなどが決定されました。
当時は雑草生い茂る夏だったこともあり、ミサイルの捜索は難航したようです。落下地点についても自衛隊と米軍側の間で意見が分かれ、最後まで統率がとれないままでした。その後も秋にかけ2回にわたり捜索がされたものの、発見できぬまま打ち切りとなりました。
◆[Pick Up]「世論のゆくえ」
上記の事件を受け、社会党や公明党の岐阜県連は米軍基地撤去をさらに強く訴えます。初動の捜索に投じた自衛隊員が、延べ1520人だったことに対し、米軍はわずか91人だったこと、早々に捜索を中止し情報提供者に100ドルの報酬金を出す方針に決定したことなど、米軍の対応も過熱した世論に油を注ぎました。総理大臣の佐藤栄作(さとうえいさく)も、7月22日の閣議でこの問題を日米間の協議問題に取り上げる旨を表明しています。日本の安全保障を揺るがす問題に関して、当時、美濃加茂市がその渦中にあったのです。
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