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歴史遊歩(れきしゆうほ)

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岡山県岡山市 クリエイティブ・コモンズ

◆宇喜多直家最大の合戦~明禅寺(みょうぜんじ)合戦を訪ねる~
◇岡山戦国時代の勢力交錯と宇喜多直家の活躍
岡山の戦国時代をまとめた「備前軍記」は、宇喜多氏が備前国、美作国の戦国大名へ上り詰め、小早川秀秋の入国と死去、池田家岡山藩の成立までを書き記した戦国絵巻です。主人公の一人である宇喜多直家は、数々の計略を用いて備前国西半の戦国大名の松田氏、備前国東半の戦国大名の浦上氏を倒し、備前国南西部(現在の岡山市街地)にまで勢力下に置いた備中国の戦国大名の三村氏を駆逐しました。
吉井川下流域を掌握した直家は、いよいよ旭川流域に進出します。それに対して備中国の戦国大名であった三村家親(いえちか)は、大国の毛利氏と結び直家への攻撃を強めます。直家は、計略をもって家親を狙撃し、侵攻を食い止め、さらに尼子(あまご)氏と結び三村氏との対決に備えます。

◇明禅寺合戦とその後の戦跡
永禄(えいろく)9年(1566年)、直家は中区の操山に明禅寺城を築きますが、その翌年、備前国に侵攻した三村勢により占領されます。しかし直家はすぐに攻略を開始し、宇喜多氏対三村氏の直接対決が起こりました。これが直家の生涯で最大の合戦とされる「明禅寺合戦」です。家親の子である元親(もとちか)は1万人の軍勢で備前国へ進撃し、北区一宮から三手に分かれて侵攻し、対する直家は5千人の軍勢で明禅寺城に侵攻します。直家は各個撃破し、三村勢を備前国から撃退して、明禅寺城を奪還しました。
合戦後、明禅寺城北側に広がる平野部には、戦死した人々を弔うための首塚がいくつも築かれ、激戦だったことを伝えています。多くは戦後の都市開発で姿を消しましたが、高島小学校の南側で行われたハガ遺跡の発掘調査で、首塚(くびづか)と思われる遺構が出土しています。一辺が2mの方形で、高さが40cmの高まりです。表面には、石がふかれていました。小さな古墳のような外観をしています。塚内部や下部を発掘調査しましたが、骨などは出土しませんでした。供養のために築かれたと考えられます。
今は静かな住宅街や田園地帯が広がっていますが、450年ほど前、備前国の命運をかけた激戦が行われたのです。

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