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歴史遊歩(れきしゆうほ)

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岡山県岡山市 クリエイティブ・コモンズ

◆宇喜多氏と高松城水攻め~八幡山陣跡(やはたやまじんあと)~
▽羽柴秀吉による水攻め
天正10年(1582年)、歴史に名高い「高松城水攻め」が行われました。織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、毛利方の清水宗治(しみずむねはる)守る備中高松城を攻め入った際の戦術です。
水攻めという攻城方法が成功したこと、信長が討たれた「本能寺の変」の要因になったこと、そして秀吉が天下統一に向けた端緒になったことから、全国的にも有名な合戦と言ってもよいでしょう。この戦いの歴史的評価については、さまざまな見方がありますが、ここでは宇喜多氏にスポットを当ててみましょう。

▽地形を生かした戦略と宇喜多氏の貢献
宇喜多氏は、直家が病死し、その息子の秀家が家督を継いでいましたが、幼少であったことから直家の弟の忠家が出陣し、羽柴勢に加わりました。宇喜多氏の陣跡は、高松城の北側約600mの至近距離にありました。八幡山陣跡です。現在は丘陵最高所の本丸に八幡神社が祀られ、東側尾根上には曲輪(くるわ)と考えられる平坦面が続いています。
八幡山陣跡は、高松城水攻めの最前線のように見えますが、見る方向を北に向けると、背後に横たわる三上山(さんじょうさん)に続く谷となっています。この谷から三上山に登ると、北側には小型の砦とそれらを結ぶ土塁が延び、高松城と同様に毛利方の城である冠山城(かんむりやまじょう)付近まで続きます。冠山城は、高松城水攻めの直前に激戦のうえ落城します。羽柴方の加藤清正(かとうきよまさ)が一番槍を入れたことで有名ですが、宇喜多勢の果たした役割も大きかったとされています。そのため、八幡山陣跡は、冠山城に続く三上山の登り口に位置していたのです。
冠山城が落城した後、羽柴秀吉は本陣を龍王山(りゅうおうざん)陣跡から高松城に近い石井山に移し、水攻めを敢行します。冠山城の落城によって、背後から攻撃される恐れがなくなったためと考えられます。派手ではありませんが、宇喜多氏の果たした役割が大きかったことを示していると言えます。

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