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津山の歴史 あ・ら・か・る・と

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岡山県津山市

■ヒポクラテスを尊敬した蘭学者たち
古代ギリシャの医師ヒポクラテス(紀元前460年頃~紀元前375年頃)は、医道の基礎を確立したとされ「医学の父」「医学の祖」といわれています。江戸時代、日本で西洋医学の翻訳・導入が始まるとすぐに、ヒポクラテスも認識され、蘭学者たちから尊敬を集めるようになりました。
オランダ語の書物を通じて最初にヒポクラテスを認識したのは、仙台藩医の大槻玄沢(おおつきげんたく)です。彼は、洋風画家の石川大浪(いしかわたいろう)に肖像画の模写を頼み、その絵にヒポクラテスの略伝を書き添えました。これをきっかけに、蘭学者たちがヒポクラテスの肖像画を掛け軸などにして珍重するようになります。
津山藩医の宇田川榕菴(うだがわようあん)もまた、ヒポクラテスを尊敬していた一人です。張込帖(はりこみちょう)と呼ばれるスクラップブックに、自ら描いたと思われるヒポクラテスの肖像画が含まれています((1))。榕菴が描いた別のヒポクラテス像には「聖弟子宇榕拝描」と書き添えられ、榕菴が自らをヒポクラテスの弟子と考え、尊敬していたことが分かります((2))。
他にも、石川大浪が模写した肖像画に、榕菴がオランダ語の文章を添え書きした掛け軸もあります((3)・(4))。その文章には「ヒポクラテス曰く。病気は雄弁では治らない。薬で治る」と書かれていますが、実はこれは古代ローマの学者ケルスス(紀元前25年~紀元後50年)の言葉であることが指摘されています。榕菴自身の誤りというよりも、参考にした資料が誤っていたようです。
蘭学者たちがヒポクラテスの肖像画を珍重したのはなぜでしょうか。もともと日本では、漢方医学の祖とされる神農の肖像画を掛け軸などにして敬っていました。蘭学者たちはこれになぞらえて、西洋医学の祖を平素から敬っていたと考えられます。
※詳しくは本紙をご確認ください。

※企画展「資料が秘めた物語4.」でこれらの肖像画を一部展示しています(7月30日まで)

問合せ:津山洋学資料館(西新町)
【電話】23-3324

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