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津山の歴史 あ・ら・か・る・と

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岡山県津山市

■津山藩最後の藩医 芳村杏斎(よしむらきょうさい)
芳村杏斎は、天保7年(1836)、大庭(おおば)郡上福田村(真庭市蒜山上福田)で代々医師をしていた芳村家に生まれました。少年時代から学問好きで、20歳のころに江戸へ出て、昌谷精渓(さかやせいけい)や藤森弘庵(ふじもりこうあん)ら高名な儒者のもとで漢学・儒学を教わった後、各地を行き来して医学の習得に努めました。内科を京都の江馬天江(えまてんこう)と美濃(みの)大垣(岐阜県大垣市)の江馬元益(げんえき)に、外科を大坂の華岡南洋(はなおかなんよう)に、産科を京都の船曳紋吉(ふなびきもんきち)に学びました。さらに、長崎へ出向きオランダ人医師ポンペから最新の西洋医学を学んだ後、上福田村に帰郷して開業します。開業後は、杏斎に治療を請う患者の来訪が絶えなかったそうです。また、杏斎は近隣の農民たちから慕われていて、一揆・打ちこわしが起きた時には、津山藩の指示によって農民の説得に当たっています。
明治維新を迎え、大阪に病院と医学校が開設されると、杏斎はそこへ出向き、オランダ人医師ボードウィンのもとでさらなる研さんに励みました。ひたむきに最新の医学を吸収する杏斎の姿勢が評価されたのか、明治2年(1869)12月には、久原洪哉(くはらこうさい)らの推薦により津山藩の最後の藩医に抜てきされます。その後、再び大阪に戻り、明治6年(1873)2月には大阪府病院の副当直医に任命されますが、あまり丈夫な体質ではなかったらしく、激務で体調を崩し、辞職して津山に帰りました。
そして、田町で開業すると、杏斎の評判はますます高まり、門前に行列ができるほどで、人々は皆「先生に一度でも診察してもらえれば、たとえ死んでも恨みに思わない」と語り合ったそうです。晩年は名誉や利益への欲を捨て、近くの山や川を散歩して持病の療養に努めましたが、明治38年(1905)6月10日、70歳でこの世を去りました。神式で葬儀が行われ、小田中の山の中腹にある墓地に葬られています。
杏斎が蓄えた医学書を中心とする蔵書は、現在でも約500冊残っていて、各地で勉学に励んだ貪欲な向学心を今に伝えています。

※芳村杏斎の企画展を開催します。詳しくは、18ページをご覧ください

問合せ:津山洋学資料館(西新町)
【電話】23-3324

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