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津山の歴史 あ・ら・か・る・と

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岡山県津山市

■今井橋の架橋(昭和11年4月25日)
写真は、吉井川に架かる今井橋の渡橋式の様子です。江戸時代にはこの場所に橋は無く、昭和11年(1936)に初めて橋が架かりました。背後には当時開催中だった「姫津線全通記念産業振興大博覧会」の模造天守が写っています。渡橋式前の神事を行っていたのか、南新座側の橋のたもとに、白い服を着た人の姿も見えます。行列の先頭を行く太鼓は式典後に徳守神社に奉納され、現在も使われているそうです。
架橋の経緯を少し見てみましょう。明治31年(1898)に中国鉄道(現在のJR津山線)の津山駅(現在の津山口駅)が開業し、城西地区は市街地の玄関口となって発展していました。しかし、大正12年(1923)に現在の津山駅が開業し、新たに玄関口としての役割を担うようになったことで、それまで繁栄していた城西地区の衰退が懸念されていました。また、駅に向かう通路として、当時の津山町は財政難から、新たな架橋はせず、もともとあった今津屋橋を拡幅して対応することとしました。その結果、吉井川南岸から津山市街中心部へ行くには、今津屋橋、境橋を渡るか、渡し船を使うしかなく、両橋から離れた地域の住民の不便は解消されませんでした。これらの問題を解消するため、元魚町~藺田(いだ)川間で新たに架橋すべく、城西の14の町と対岸の大谷土地区画改良組合の代表で新橋架設期成同盟が結成され、募金を始めましたが、容易には集まりません。そこで、坪井町で呉服商を営む今井寿恵氏が工事費1万円(*)を全額寄付し、工事が始まりました。昭和11年4月に橋が完成し、同25日に渡橋式が執り行われ「今井橋」と命名されました。
渡橋式当日には、餅まきや仮装行列などの祝賀行事が行われました。費用は約6千円、工事費の6割に及ぶほどだったと伝えられています。そのほとんどは大谷土地区画改良組合が負担したそうです。吉井川の両岸に住む人々にとって、新橋の完成をどれほど待ち望んでいたかがうかがえる金額だといえるでしょう。
(*)当時の銀行員の大卒初任給70円、コーヒー1杯15銭(参考文献:週刊朝日編「値段史年表明治·大正·昭和」)

※写真は本紙をご確認ください。

問合せ:津山郷土博物館(山下)
【電話】22-4567

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