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津山の歴史 あ・ら・か・る・と

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岡山県津山市

■焼失した日記の再編
現在、岡山県指定重要文化財に指定されている津山藩松平家文書は、松平家が元禄11年(1698)に津山に来てから明治までを中心とした津山藩の資料群です。その大部分を占めるのが約2千冊に及ぶ日記類で、全国のさまざまな研究に利用されています。津山藩では、町を管轄していた町奉行の日記や、村を管轄していた郡代の日記をはじめ、さまざまな種類の日記が記されました。松平家が藩主となって40年後ごろからしか残されていない各役所の日記に対して、「江戸日記」や「国元日記」は、おおよそ松平家が津山藩主であった期間を通じて残されており、江戸や津山での重要事項が記されています。
しかし、文化6年(1809)正月、津山城の本丸御殿が火災にあった際、「国元日記」の多くが焼失しました。藩はこの事態にすぐ対応しました。2月15日、「国元日記」の編集担当である大目付に調査を命じました。大目付は、焼失した「国元日記」を復元するため、藩内にあるさまざまな資料をかき集め、主に次に挙げるような方法で再編したと考えられます。
(1)大目付・政事惣奉行(せいじそうぶぎょう)などの役職に就いていた人が作成していた控えや記録の写しから編集
(2)他の役所の記録を選んで編集
(3)大戸櫓に下日記があって、それを清書
(4)(1)~(3)を組み合わせて編集
(5)江戸の津山藩邸にあった「国元日記」の写しを津山に取り寄せて編集
これらのうち、(2)についてその経過が文化8年(1811)の町奉行日記に記されています。町奉行は、文化8年の3月から8月まで、安永3年・4年(1774・1775)、天明元年~5年(1781~1785)、寛政12年(1800)などの町奉行日記を少しずつ大目付に提出しました。
町奉行は、安永3年と4年の日記を大目付に提出していますが、この両年の「国元日記」は町奉行日記ではなく(1)によって再編されたことが記されています。大目付は集めてきた記録のうち、内容が元の「国元日記」に最も近いと判断したものを採用したと考えられます。あるいは、一つの記録を鵜呑みにせず、複数の記録を比較し裏付けを取って、より正確なものに仕上げようとしていたのかもしれません。
このように再編されたおかげで、現在わたしたちは文化6年以前の様子も知ることができるのです。

問合せ:津山郷土博物館(山下)
【電話】22-4567

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