“参勤交代”という言葉を聞いて、みなさんはどんなイメージが浮かぶでしょうか。
今から約390年前の江戸時代初め頃、全国には200家以上の大名がいました。その多くが1年おきに自分の領地から江戸に出てくるようにと、徳川幕府に義務付けられました。これが参勤交代と呼ばれる制度で、その後幕府が滅亡する直前まで、200年以上にわたって行われました。この制度は、幕府が大名の経済力を弱めるために導入したと説明されますが、それは大名が多くの家臣をひきつれ大量の荷物を運ぶため、人や馬を使用したことが理由のひとつにあげられます。
やや前置きが長くなりましたが、江戸時代に参勤交代で智頭往来―志戸坂峠越を通った大名が、32万石を有した鳥取藩池田家でした。鳥取藩は岡山藩池田家の分家にあたりますが、初代藩主の池田光仲(1630-93)は、徳川家康のひ孫にあたるため、将軍家との結びつきが強く、石高は全国の大名のなかでも12番目にあたる大藩でした。そのため鳥取藩の行列人数は、1852(嘉永5)年に江戸から帰国したときには1,172名にものぼりました。しかもこの数は藩財政の悪化により、人数を減らしていた時期のことなので、江戸時代前期には、2,000人以上になったと推測されます。参勤交代にかかった費用も莫大で、江戸時代後期で片道1回につき約2,000~3,000両(現在のお金で約2億6千万~3億9千万円)でした。これだけの人と物が、往来の最難関といえる志戸坂峠を、人畜の力のみによってゆっくりと移動する姿は、自動車や大型トラックがトンネルを高速で通過する光景に見慣れた私たちにはなかなか想像がつきにくいことだと思います。江戸時代には人や馬が安全に通行できるように道の整備や、モノの輸送には地域の人々が動員されていて、その労力も大変なものだったと思われます。近代以降、峠には茶店があり、坂根の村には日用品を売る店や旅館があって宿場町的な機能が残っていたとはいっても、参勤交代の終焉は、農業条件に恵まれないこの地域の経済や生活にとって、少なからず影響があったと思われます。
明治以降の大きな変化については、次号の松岡先生がわかりやすく書いてくださいますので、引き続きご期待ください。
智頭往来-志戸坂峠越保存整備活用委員会副委員長 来見田博基
鳥取県立博物館学芸課
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