◆〈山本由佳理さん〉山本さんは、高校卒業後、ソニーHCに所属され、3回のオリンピックを経験されました。印象に残っている大会、選手引退後の現在の活動や目標を教えてください。
私は大学2年生の時に全日本に加わり、2020年アテネ、北京、ロンドン大会に出場しました。一番思い出深い大会は、8位に入賞したアテネですね。また、オリンピック出場を決めた試合についてもよく覚えています。現在は、全日本のコーチとして、対戦する相手が何を得意・不得意としているかを分析し、選手をサポートしています。
私がオリンピックに出場して以来、オリンピックには必ず地元出身選手が出場しています。今後、一人でも多く日本代表選手として活躍できる選手を輩出するため、たくさんの小中高校生に自分の経験を伝えていきたいと思います。そして将来オリンピックでメダルをとってくれることを期待します。
◆〈児島史朗さん〉本町を取り巻くホッケーの課題と目標は何でしょうか?
大会で上位に食い込むようになった頃から、大学でもホッケーをする選手が増えてきました。しかし、卒業後、男子にはセルリオ島根があるとは言えど、働きながら競技を続けられる環境が十分に整っているとは言えません。また、人口減少により、他の競技との選手の取り合いをする時代となりました。このような状況を改善するためにも、ホッケーの面白さをさらにPRし、選手を確保すること、安心して競技と仕事を両立できる環境を整えることが大切です。
■私が小学生の頃、当時の仁多郡内の小学校では、すでにホッケーを始める学校がありましたが、私がホッケーを身近に感じる様になったのは、中学に入り、ホッケー部の友人の活躍を観てからだと思います。私は中学生時代は吹奏楽部に所属していましたが、国体前年に開催されたリハーサル大会に参加し、地元選手の活躍、運営や応援など、町民全体が国体を初めて迎える高揚感と国体を成功させようといった気運を今でも鮮明に記憶しています。あれから約40年の間、連綿とその精神は引き継がれ、ホッケーは町民の皆様にそれぞれのドラマと感動を与え、奥出雲町、島根県の代表的なスポーツとなりました。ここまでの事例は全国でもまれであると思いますし、選手、指導者、役員、支える家族として、様々な形でホッケーに携わってこられた全ての皆さんに敬意と感謝を伝えたいと思います。
先般、ホッケータウンの認定を受けました。2030年の国民スポーツ大会にむけて、町としては、AIカメラの導入などホッケーで全国初の試みも行うなど、環境整備、選手強化を図るとともにホッケーをはじめ、奥出雲町のスポーツ振興を推進していきます。
奥出雲町長 糸原 保
何もわからない所からスタートし、多くの方々の努力と情熱により「ホッケーの町」として知られるようになりました。
現在、室外だけでなく、室内ホッケーの道具も整備されており、子どもたちにとって身近なスポーツとなっています。今後も子どもたちのホッケーを通した活躍が期待されます。
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