安来市立歴史資料館の展示品を通して安来市の歴史を紹介する、このシリーズ。最終回は、母里藩のお話です。
1666(寛文(かんぶん)6)年4月29日、母里(もり)藩1万石が誕生しました。初代藩主は松平隆政(まつだいらたかまさ)です。母里藩は1万石の小藩であることから、参勤交代はせず定府(じょうふ)といって藩主は常に江戸にいて、国元(くにもと)には国家老(くにがろう)を置いて治めました。隆政の父の松平直政(なおまさ)は徳川家康の孫にあたることから、小藩であっても江戸城では城主格以上の譜代(ふだい)大名と同等の扱いを受けました。
母里藩では、藩の存続が危ぶまれるような危機が何度かありました。その一つが「宝暦(ほうれき)の変」です。
1712(正徳(しょうとく)2)年に直員(なおかず)が3代藩主となります。時は元禄(げんろく)時代、武士も町民も贅沢を極めた時代でした。直員も、江戸屋敷内の12畳の奥殿の天井をギヤマン(ガラス)で張り、それに水を入れて2~3尺(60~90cm)の緋鯉(ひごい)や真鯉(まごい)、金魚を飼って寝ながら眺めたりするなど、思う存分な贅沢をしました。そのため藩の財政が困窮したので国家老は困り、年貢の率を上げたり領内の富豪(ふごう)から金を借りたりしましたが、遂には二人の家老が切腹をしてこの窮状を主君に訴えました。これにより直員もようやく目が覚め、松江藩の援助によりなんとか借金の整理を行うことができました。
藩主の中で、ただ一人母里へ帰って来たのが、10代藩主の直哉(なおとし)でした。1856(安政(あんせい)3)年に家督(かとく)を継ぎ、1862(文久(ぶんきゅう)2)年には、従五位下主計頭(かずえのかみ)に任ぜられました。そして、1864(元治(げんじ)元)年、長州征伐に参加するため、9月9日に江戸を出発し、10月5日に母里へ帰って来ました。その時宿泊所に掲げられた泊札(とまりふだ)を歴史資料館に展示しています。
その後、1869(明治(めいじ)2)年には藩が廃止され、母里藩も終焉(しゅうえん)を迎えるのでした。
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