江津のものづくりにおいて、伝統工芸品に目を向けて見たいと思います。桜江で受け継がれ、昭和54年に市指定文化財になった勝地半紙(かちじばんし)を1月号と2月号の2回に分けて紹介します。
地域おこし協力隊 後藤 響介
■日本遺産認定の伝統工芸
令和元年、「勝地半紙(かちじばんし)」と風の国にある工房の「(※1)甑(こしき)」は「石見神楽」と共に(※2)日本遺産「神々や鬼たちが躍動する神話の世界~石見地域で伝承される神楽~」のストーリーを語るうえで重要な構成文化財として登録されました。
浜田市三隅を中心に生産される石州半紙は、石見神楽の衣装や道具に広く用いられており、同じく日本遺産としての石見神楽の構成要素となっています。一方、勝地半紙は、石見神楽のルーツともされる大元神楽の幣(ぬさ)などに使用されるものとして、独立して認定されました。
桜江で受け継がれてきた紙漉(かみす)きは、今なお神事的な雰囲気を色濃く残す大元神楽で使用するものを奉納する思いで真心を込め、丁寧に作られてきたことが評価されたと言えます。
※1…甑
原料となる楮(こうぞ)を蒸す際に使用する道具。次回詳しくご紹介します。
※2…日本遺産
地域の貴重で魅力的な歴史や伝統工芸、祭りなど今まで個別で保護していたものを、一体的な「物語」として価値を見出し、国内外への発信を目的とする文化庁の認定制度。
■勝地半紙のあゆみ
紙漉きは柿本人麻呂が石見地方に伝えたとされ、桜江では室町時代には既に盛んに行われていた記録があります。石州が全国屈指の和紙産地として知られるようになった江戸時代には、長谷、市山、日貫の一帯で生産されたものは特に高品質とされ、津和野藩、浜田藩の重要な収入源となりました。明治に入っても、問屋が市山にあったことから「市山半紙」の名で人気は続き、さらに大正期には「民藝運動の父」と呼ばれる柳宗悦がこの市山半紙を高く評価し、自身の著書「工藝」の用紙としても使用するほどでした。
しかし、近代化、高度経済成長期と時代が進む中で和紙の需要が減り、石見地方全体でも生産が衰退していきました。そんな中、昭和44年に国の重要無形文化財として石州半紙を保護する動きがありましたが、「半紙を漉いていない」という誤った情報により、桜江産のものは石州半紙の対象外とされてしまいます。
その後、桜江での生産は長谷で唯一となった原田宏さんから甥にあたる佐々木誠さん・さとみさんご夫妻が継承し、工房のあった勝地集落にちなんで「勝地半紙」名付けられた紙漉きの伝統を守り続けています。
次回に続く
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