■江津の伝統工芸品について、勝地半紙に続き今回から2回に分けて石見焼を取り上げます。
地域おこし協力隊 後藤響介
古そうな瓶(かめ)や瓦が道路沿いや民家の庭先に置いてあったり、野山や畑にも遺跡のように残されているのを不思議に思っていました。江津に住み始めてから瓶を「はんど」と呼び、瓦は石州瓦という江津の特産品であることを知りました。
地元の皆さんには何ともない光景かもしれませんが、その歴史や特徴、そして職人の精神に、いま一度目を向けてみましょう。
▽石見焼の歴史
石見焼の起源は、豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役(1592年~1610年)に遡ります。このとき朝鮮半島から連れ帰った陶工たちが技術を伝えたのが始まりとされています。その後、江戸時代中期には周防国の陶工が片口や徳利といった小型陶器の技術を、備前国の陶工が瓶など大型陶器の技術とし伝えたとされ、江津でも石見焼の生産が本格化しました。
石見地方で陶器作りが広まった背景には、良質な陶土が採れたことが挙げられます。この点については次回、詳しく取り上げたいと思います。
江戸時代末期には、浜田藩の奨励もあって石見焼は水瓶や漬物瓶の生産拠点となり、明治の最盛期には江津や浜田を中心に100軒以上の窯元があったと言われています。
▽「はんど」という言葉
石見焼の瓶は「はんど」と呼ばれています。一部では「はんどう」とも呼ばれ、漢字で「半胴」「半斗」「飯胴」と書かれることもあります。
由来は明確ではありませんが、それだけこの「はんど・はんどう」が石見の暮らしに深く根付いてきた証だと思います。もし由来をご存じの方がいらっしゃれば、ぜひ教えていただければと思います。
▽生活必需品「はんど」
水道が普及する以前、水を貯めることは生活の要でした。水が浸み込みやすい容器では冬場に凍結して割れてしまいますし、保存食である漬物や味噌、梅干しを保管するには、酸や塩分にも耐えられる容器が必要でした。
石見焼の「はんど」は、良質な陶土と職人の技術によって高い耐久性を誇り、こうした需要に応える生活必需品として重宝されてきました。同じ陶土で作られた石州瓦とともに、北前船をはじめとする廻船航路で北陸、東北、北海道まで広まりました。石見焼といえば「はんど」として、かつての日本人の生活を支える存在だったのです。
次回はこの「はんど」の強さと大きさの秘密について、見ていきます。
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