■第1回 横山城跡(よこやまじょうあと)
今年11月16日(土)・17日(日)に益田市において「第31回全国山城サミット益田大会」が開催されます。これにあわせ、本連載では市内の代表的な山城を紹介します。
横山城跡は桂平町と柏原町にまたがる標高350mの山に築かれています。築城年代ははっきりしません。
戦国時代に入ると、現在の益田市域の領主・益田氏と津和野町域の領主・吉見(よしみ)氏の両勢力の中間にあることから、争奪の対象となりました。永正(えいしょう)4(1507)年、豊田(とよた)、領家(りょうけ)、黒谷(くろたに)の三氏が、某美作守(みまさかのかみ)に、上黒谷で不慮の事態が起こった際は横山城にかけつけると誓っています(毛利博物館所蔵「諸家文書」2号[『山口県史』史料編中世2])。
天文(てんぶん)20(1551)年、吉見氏を攻めて撃退された益田氏が、反撃に備えて俣賀(またが)氏・安富(やすどみ)氏・高津氏らに防御を固めさせています(『中世益田・益田氏関係史料集』614号)。
しかし、弘治(こうじ)2(1556)年に吉見氏が攻略に成功して城督の和田中務少輔(なかつかさしょうゆう)が生け捕りにされました(『中世益田・益田氏関係史料集』680号)。
地元では喜島備後守宗勝(きじまびんごのかみむねかつ)が城主と伝わります。1550年代のものと思われる文書で、来島備後守宗連(きじまびんごのかみむねつら)と中屋頼民(なかやよりたみ)が連名で益田因幡守(いなばのかみ)らに投降を促しています(「益田家文書」732号)。喜島備後守宗勝と来島備後守宗連は、いずれも名字は「きじま」と読めるので、父子の可能性が考えられます。おそらく来島氏は吉見氏家臣と考えられます。
現在の横山城跡は、地元の方が整備されていて、特に北側の眺望がすばらしく、麓はもちろん、益田平野まで見渡すことができます。見どころは本丸東側の4連続の堀切(ほりきり)で、堀切の防御機能がよくわかります。
・横山城本丸跡から北側の眺望
抜群の眺望で、敵が攻めてきてもすぐに気づくことができます。
「第31回全国山城サミット益田大会」の開催を記念して、市内の山城をめぐる益田市内山城ラリーを実施します。
・第1回「横山城址健康ウォーク」
日時:4月21日(日)9:00集合
場所:二条公民館
問合せ:二条公民館
【電話】29・0001
問い合わせ先:市文化振興課
【電話】31-0623
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