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ふるさとふちゅう再発見【第29回】

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広島県府中町

■府中町で体験、四国お遍路(15)鵜上寺(2)
鵜上寺について、大きな変化が確認できるのが明治14年6月の「社寺現況報告(しゃじげんきょうほうこく)」(仮名)と翌年の「堂宇存置願(どううそんちねがい)」です。「報告」では「安芸郡府中村石井丈(いしいじょう)曹洞宗(そうとうしゅう)観音堂本尊観世音菩薩(略)堂宇間敷弐間四面(まじきにけんしめん)敷地坪数(しきちつぼすう)弐拾四坪(にじゅうよんつぼ)信徒人員百七十名」とあります。「堂宇存置願」では、由緒として「延喜年度創立(えんぎねんどそうりつ)旧氏神惣社大明神(きゅううじがみそうじゃだいみょうじん)本地仏(ほんぢぶつ)、藪之内家先祖勧請也(やぶのうちけせんぞかんじょうなり)」さらに「右観世音菩薩(みぎかんぜおんぼさつ)ノ儀ハ当地守護仏(とうちしゅごぶつ)トシテ凡(およそ)千年余(せんねんあまり)当地(とうち(に))安置(あんち(し))尊崇(そんすう)仕来候(つかまつりきたりそうろう)、尚(なお)近年ニ到(いたり)テハ信徒講中(しんとこうじゅう)トテ多人数(たにんずう)参拝者(さんぱいしゃ)有之候(これありそうろう)ニ付何卒(なにとぞ)此侭(このまま)ニ存置(そんち)成置(なしおき)被下度(くだされたく)奉願候(ねがいたてまつりそうろう)」と府中村長福寺(ちょうふくじ)住職南山僊外(なんざんせんがい)、信徒惣代藪之内直吉(やぶのうちなおきち)、府中村長西尾生一郎(にしおきいちろう)の3名の名前で願い出て、9月14日に広島県令千田貞暁(せんださだあき)により認められています。明治政府の方針により広島県は小さな社寺の統廃合を進めており、明治14年8月6日には社寺ともに氏子・檀家惣代人を選出して財産管理を行うよう通達を出しました。2つの史料は、このような動きの中で観音堂を守るため、藪之内直吉が長福寺住職に依頼し、長福寺ゆかりの観音堂として報告し、認可されたことが考えられます。鵜上寺には同年7月17日付けの棟札(むなふだ)が残されています。講中(こうじゅう)頭取(とうどり)藪ノ内直吉のほか3名、同取締(どうとりしまり)19名、若者(わかもの)25名の名前が記されています。個人の観音堂が地域の信仰を集めるようになり、廃止の危機に村全体で守る努力がなされたことが分かります。
棟札には「府中村北谷山(きたたにざん)十一面観音」と記されており、昭和7年に発行された『芸州府中荘誌(げいしゅうふちゅうそうし)』には長福寺管理の3つの観音堂として尾首観音・江本寺観音とともに石井城観音が記されています。鵜上寺の名称で独立した存在と認められるのはもう少し後なのでしょう。
府中町文化財保護審議会委員 菅信博

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