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ふるさとふちゅう再発見【第30回】

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広島県府中町

■府中町で体験、四国お遍路(16)鵜上寺(3)
鵜上寺(うじょうじ)の建物については、正徳(しょうとく)2(1712)年の「安芸郡府中村寺社堂(じしゃどう)古跡帳(こせきちょう)」では観音堂一宇(いちう)とあるだけで、大きさは分かりません。元文(げんぶん)5(1740)年の「安芸郡府中村諸樋諸橋仕出帳(しょひしょきょうしだしちょう)」では「観音堂七尺四方」とあり約2.1メートル四方の小さいお堂と分かります。この史料では百姓新蔵(ひゃくしょうしんぞう)自身が屋根の葺(ふ)き替(か)えや修理を行ったとあります。昭和初期の写真では、この近辺の民家の多くは茅葺(かやぶき)なので、このお堂も茅葺だったと考えられます。ところが、明治14(1881)年6月の報告書では堂宇(どうう)2間四方(約3.6m四方)で境内(けいだい)敷地が24坪(つぼ)と記されています。この年7月18日付けの棟札(むなふだ)があるので、社寺の統合・廃止が進む中で観音堂を守るために提出された「堂宇存置願(そんちねがい)」に合わせ新築したことが考えられます。棟札には、講中頭取藪ノ内直吉(こうじゅうとうどりやぶのうちなおきち)ほか46人の名前が記され、隣村温品(ぬくしな)村の大工三戸松次(だいくみとまつじ)が建てたとあります。地域全体の力で建てられたのです。現在境内に大正15(1926)年に建てられた石碑があります。ここには「境内地域弐拾六坪本堂再建立(さいこんりゅう)寄付者二宮ツネ梶山為三郎(かじやまためさぶろう)大正十五年七月建立」と彫られています。明治の新築から45年が経ち2人の寄付で本堂を再度建立したということです。昭和7(1932)年に発行された『芸州府中荘誌』には、「石井城観音堂宇二間四方敷地二十四坪」となっています。これは筆者菅原守氏が実際に現地で調べたのではなく明治14年の報告をもとに記述した可能性があります。その後、平成16(2004)年12月27日に鵜上寺の改修工事が行われ、現在の建物となりました。鵜上寺世話人会では、この時に写真集『北谷山(きたたにざん)鵜上寺本尊十一面観世音菩薩(ほんぞんじゅういちめんかんぜおんぼさつ)』を完成させています。瓦葺(かわらぶき)になったのはどの段階かは不明ですが、少しずつ整備されてきたことが分かります。府中町文化財保護審議会委員 菅 信博

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