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ふるさとふちゅう再発見

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広島県府中町

第36回 府中町で体験、四国お遍路(22)正観寺(2)
江戸時代の正観寺(しょうかんじ)については広島藩の地誌である『知新集(ちしんしゅう)十一』に詳しく書かれています。この書は文政(ぶんせい)2(1819)年の書で所在地の白島の名前の由来、三角州の中でも早く開かれた地であること、享保(きょうほう)年間(1716年~1736年)には藩主浅野吉長(あさのよしなが)から銀貨500目を隔年(かくねん)に賜(たま)わったことなどが記されており、一定の寺格(じかく)をもつ寺院であったことが分かります。
なお、この書には「中興開山宥尊(ちゅうこうかいざんゆうそん)慶長(けいちょう)十七年壬子ゟ(みずのえねより)慶安(けいあん)四年辛卯(かのとう)まで四十年住職(じゅうしょく)、同年六月二日寂(じゃく)、」とあります。宥尊が慶長17(1612)年から慶安4(1651)年まで40年間住職を務め死亡したということです。住職になるということは一定の年齢以上で、住職に推薦されるだけの実績があり、それを評価する有力者がいたのでしょう。福島正則(まさのり)は慶長5(1600)年の関ケ原(せきがはら)の合戦(かっせん)後、尾張清州(おわりきよす)(愛知県)から芸備両国(げいびりょうこく)49万石に移封(いほう)されます。翌年から領内の検地(けんち)、刀狩(かたながり)を命じるなど領国経営を進めます。『新修広島市史(しんしゅうひろしましし)第五巻』には福島正則が広島城下の国泰寺(こくたいじ)や明星院(みょうじょういん)、不動院(ふどういん)、多聞院(たもんいん)などの寺院に多くの寄進をしたとあります。この時期に宥尊が「中興開山」と称されるほどの整備を行えたのは相当の支援者がいたからでしょう。
なおこの書には正観寺の様子が記されており、境内(けいだい)には三間半(さんけんはん)(約6.3m)四方(しほう)の本堂、8間半(15.3m)×3間(5.4m)の庫裡(くり)の他、天満宮(てんまんぐう)、大黒堂(だいこくどう)、地蔵堂(じぞうどう)、稲荷社(いなりしゃ)があり、面積2反2畝12歩(約2220平方メートル)の大寺院であったことが分かります。
図は『新修広島市史第五巻』の広島城下侍屋敷絵図の一部(寛政10年)です。周囲は家老浅野孫左衛門(かろうあさのまござえもん)の下屋敷ほか武家屋敷です。川沿いの名前の無いところは町家です。
※図は本誌またはPDF版をご覧下さい。

府中町文化財保護審議会委員 菅 信博

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