[第47回] 府中が農村だったころ(7)~青崎新開(1)
青崎という地名は府中町と広島市南区にあり混同している人もいます。この両地区は江戸時代に土砂が堆積した府中大川を掘り浚(さら)えその土砂を干潟(ひがた)であった青崎に運んで埋め立てた青崎新開です。現在、青崎が付く地名は府中町青崎南、青崎東、青崎中と広島市南区青崎1丁目・2丁目及び東青崎町です。青崎新開は、このうち府中町青崎東を除いた平地部分です。江戸時代の仁保島(にほじま)は現在の仁保・向洋・青崎を含んだ広い村で、府中村と共に安芸郡に属していました。府中・仁保島の間に広がる干潟の干拓工事は藩から安芸郡役所(あきぐんやくしょ)に命じられ、完成後は府中村分と仁保島分に分割され、府中村はそのまま府中町の地名となります。仁保島は、仁保島村、仁保村となり昭和4(1929)年に広島市と合併し、広島市南区の地名となっているのです。
広島藩は普請奉行(ふしんぶぎょう)・郡廻(ぐんまわ)りなどの武士を現場に出張させましたが、府中大川の浚渫(しゅんせつ)、埋め立て地までの土砂の運搬、土手の築造など多くの労働力が必要でした。安芸郡の村ごとに人数を決め、多数の人たちが駆り出されました。安永4(1775)年8月には安芸郡役所は安芸郡割庄屋(わりじょうや)であった畑賀村勘兵衛(はたがむらかんべい)と江田島村仁蔵(えたじまむらにぞう)に、工事のために直接現地への出張を命じています(『安芸府中町史第2巻』)。また渡子島(とのこじま)・吉浦(よしうら)・庄山田(しょうやまだ)すべて現呉市)など8か村の庄屋や坂村・瀬戸島の与頭(くみがしら)も出張しています。工事に必要な木材は江田島・渡子島(現呉市音戸町)の藩有の御建山(おたてやま)の木材を伐採し、運ばせています。安芸郡を挙げての大工事だったのです。
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府中町文化財保護審議会委員 菅 信博
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