【第38回】 府中町で体験、四国お遍路(23)正観寺(3)
広島市白島町にあった正観寺(しょうかんじ)が府中町に移転するきっかけは昭和20(1945)年8月6日の原爆被災です。白島地区は建物が全焼しました。江戸時代には隆盛(りゅうせい)を誇った正観寺ですが昭和20年頃には住職は不在で、近くの宝勝院(ほうしょういん)の住職が兼務しており、戦後の復興時には正観寺は放置されたままの状況が当分続きました。昭和24(1949)年になり広島市の復興都市計画による区画整理が始まります。現住職の祖父(そふ)小出真浄(こいでしんじょう)氏は正観寺の総代を務めていたため、祖父を中心に話が進められます。小出氏は元広島藩士で、当時は士族(しぞく)です。先祖は浅野氏とともに紀州から広島入りしたと伝えられ、現在地付近の郡代(ぐんだい)を務めていたと言われています。この辺りは江戸時代には温品川(ぬくしながわ)(府中大川)河口の湿地で広島藩の狩場(かりば)があり、それを守っていたとのことです。区画整理を前に総代であった真浄氏は2つの事を決断します。一つは、所有者不在として整理対象となる正観寺の移転であり、もう一つは、将来的に正観寺を維持していくために自らが僧籍(そうせき)を得ることです。まず、真浄氏が所有していた安芸郡府中町の小畠山(こばたけやま)(現在地)に本堂などを建立します。これは現在の本堂より上に建てられた木造の本堂です。昭和33(1958)年に完成し、翌昭和34年に正式に移転しました。次に当時勤めていた広島市役所を退職し、福王寺(ふくおうじ)(現広島市安佐北区可部)で修行を行い、僧籍を取得します。その子(現住職の父)も同様に福王寺で修行し僧籍を取得しました。その後当初の木造本堂が経年により老朽化が進んだため、また山の頂上にある本堂への急傾斜の参道を登る不便解消のため、平成9(1997)年に現在の本堂・檀信徒会館(だんしんとかいかん)を現在地に建立しました。
府中町文化財保護審議会委員 菅 信博
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