第40回 府中が農村であった頃(1)
現在、広島県内の市町の数を知ってますか。23市町です。大規模な合併は明治の大合併(明治22年市制町村制施行)、昭和の大合併(昭和28年町村合併促進法施行)、平成の大合併(平成11年合併特例法施行)の3回です。明治21年の町村の数字は1174です。これは合併前の数字で、江戸時代の村の数といってよいでしょう。以後市町村は明治の合併後で452に、昭和の合併後に110と減少し、平成の合併後、現在の23市町になりました。ところで、江戸時代の村がそのまま町になったのは2町しかありません。それは府中町と坂町です。近辺では海田町は海田村と奥海田村の合併です。温品村は福木村と合併し安芸町となり広島市に合併しました。船越村は町となり広島市に合併しました。府中町は江戸時代の村とほぼ同じ区域で町になり、現在に至るのです。
江戸時代の府中村は安芸郡でも大規模な農村でした。農村府中村といわれてもイメージがわかない人の方が多いでしょう。実際に令和2年10月段階の町内の田畑は15.1ヘクタールで全体面積の1.45%にすぎません。写真は、大正14(1925)年に陸軍陸地測量部・参謀本部が測量した地図です。府中大川(温品川)を中心に広大な田地が広がっています。今は商業施設や住宅地ですね。昭和元(1926)年の『広島県統計書』では全人口1678人のうち、第一次産業従事者は1387人で82.7%です。ほとんどが農業従事者です。昭和5年に東洋工業が府中町字新地に移転し、昭和13年にキリンビールが大須新開に工場を落成させた頃から主産業は工業へと転換していきます。次回からかつての府中村の姿やその後の変化を見ていきましょう。
府中町文化財保護審議会委員
菅 信博
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