■第42回 府中が農村であった頃(3)
今回は江戸時代の府中村の村高(標準生産高)の増加を史料が残る4回に分けて見てみましょう。まず元和(げんな)5(1619)年の「安芸国知行帳(あきのくにちぎょうちょう)」です。関ケ原の合戦後に広島藩主となった福島正則(ふくしままさのり)が改易(かいえき)になり浅野長晟(あさのながあきら)へ引渡された時の村名・村高を示す文書です。次が寛永(かんえい)15(1638)年の地詰帳(ぢづめちょう)です。浅野氏は寛永15年から幕府に報告しない非公式の土地の調査である地詰を行います。その記録が地詰帳です。この時の村高は以後の年貢の基本になり、その後の新開地(しんがいち)は別途記載されました。地詰帳は場所、面積、石高(こくだか)、耕作者などが記載された貴重な史料ですが、残念ながら府中村には現物が残っていません。広島藩は地誌「芸藩通志(げいはんつうし)」を編纂するため村ごとに「国郡志下調(こくぐんししたしら)べ帳(ちょう)」を提出させます。文化12(1815)年に提出された「府中村国郡志下しらべ帖」では寛永の地詰の数字が「古地(こち)」と記載され、それ以後を「新開」とし、合計が文化12年の数字になっています。最後が明治3(1870)年の「安芸国安芸郡郷村高帳(あきのくにあきぐんごうそんたかちょう)」で、廃藩置県(はいはんちけん)前の江戸時代最後の村高(むらだか)です。
面積が明記されているのは1638年と1810年です。村高を元和5年を100とすると、寛永15年は124、文化12年には147・3、明治3年には149・5です。これから府中村の村高は江戸時代前半に急速に増加し、後半は少ししか増えていないことが分かります。次回、いつ頃、どこが増えたのかを見ていきましょう。
府中村の村高の増加
※村高は升以下切り捨て
※元和5年と明治3年のかっこで示す面積は村高から筆者が推測したものです。
府中町文化財保護審議会委員
菅 信博
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