第43回 府中が農村であった頃(4)
前回、府中村の村高(むらだか)の増加について紹介しました。今回は、それらの耕地がいつ頃から開墾(かいこん)されたのかを見てみましょう。表は元文(げんぶん)5(1740)年の「府中村諸樋諸橋仕出帳(ふちゅうむらしょひしょきょうしだしちょう)」という史料を中心に府中村の新開地(しんがいち)の名称と開発された年代をまとめたものです。
まず現在でも広い平地である浜田(はまだ)はこの史料に出てきません。海岸近くの場所を示唆(しさ)する浜田という地名ですが、寛永(かんえい)の地詰(ぢづめ)の時にはすでに農地として耕作されていたのです。また府中大川東岸に広がる鶴江(つるえ)や現・本町なども同様です。前回紹介したように明治3(1870)年の面積を100%とすると元和5年時点で約67%がすでに耕地化されています。江戸時代初期までは、丘陵地や谷間、山際の平地を中心に農業が行われていたのでしょう。表を見ると大須(おおす)や鹿籠(こごもり)など広い新開はすべて1600年代後半に集中しています。これらの地は当時砂州(さす)や湿地(しっち)で、江戸時代前半の土木技術により干拓可能な場所だったのです。1700年代に適地が減少し干拓も少なくなりました。これは全国的にも同じ傾向です。この後の大規模な干拓は昭和5(1930)年に完成した新地(しんち)で当時、東洋工業株式会社などが工場を建設しました。
府中村の干拓の広がり
※新開の位置や広さなど詳しく知りたい方は、府中町歴史民俗資料館の展示をご覧ください。
府中町文化財保護審議会委員
菅 信博
<この記事についてアンケートにご協力ください。>