第44回 府中が農村であった頃(5)
前回、14か所の新開地(しんがいち)を紹介しました。今回から代表的な3地区を紹介します。
大須新開は、現在の広島市南区大州(おおず)から東区矢賀(やが)の一部を含めて藩営事業(はんえいじぎょう)として万治(まんじ)3(1660)年6月に完成しました。設計や管理は広島藩が行い、入用銀(いりようぎん)(必要経費)の6割を藩が、残り4割を広島町組(まちくみ)・矢賀村と府中村が負担しました。労働力は村の負担です。完成後は、府中村・矢賀村・広島町組に分けられて使用されました。新開全体には用水路や橋がたくさん架(か)けられ、それらは全体の責任で築造(ちくぞう)、修理されています。府中村の大須新開は村の新開の中では最大で、現在の大須1~4丁目にあたります。この地域は猿猴川(えんこうがわ)と温品川(ぬくしながわ)(府中大川)に挟まれており、両川から運ばれた土砂により湿地が広がっていたようです。記録には「大須新開土手(どて)長さ612間(約1.1km)根置(ねおき)8間(14.4m)」と記されています。この土手は府中大川西岸に築かれたもので、現在の新石井尻橋(しんいしいしりはし)の少し上流から府中大橋までの堤防です。根置とは土手の一番下の部分で、8間というと下部がかなり広く大きな土手だと分かります。
こういった新開が完成すると10年間は「鍬下年季(くわしたねんき)」という無税の時期
がありました。府中村分は寛文(かんぶん)10(1670)年に地詰(ぢづめ)(検地)が行われ、「面積26町3反3畝3歩」「高239石4斗5升」と記録されています。1反あたり9斗の米の生産となります。以前紹介したように寛永15(1638)年の地詰では府中村は面積174町8反3畝で石高(こくだか)2302石9斗でした。1反あたりの生産高は1石3斗です。湿地を干拓したもので生産性は低かったのです。この地の一部に昭和12(1937)年にキリンビールの工場が完成し、現在はイオンモール広島府中になっています。
府中町文化財保護審議会委員
菅 信博
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