第48回 府中が農村だったころ(8)~青崎新開(2)
青崎新開の干拓工事は安永(あんえい)3(1774)年に藩営事業として始まりました。史料(『安芸府中町史第2巻』)では「府中村川掘(かわほり)ニ付、砂捨場(すなすてば)仁保島両村抱(かかえ)之所」へ「新開築調申付候(しんがいちくちょうもうしつけそうろう)」と記されています。当初は浅くなった府中大川の氾濫防止(はんらんぼうし)が主な狙いであったようです。
江戸時代の府中村の新開地は現在9か所が確認されていますが、多くが17世紀の後半までに終わっています。当時の土木技術で干拓可能な地は早くから干拓され、難しい場所が残されたのです。9か所のうち18世紀の完成は青崎新開のみです。湿地であった大須新開などに比べ、青崎新開は海に向かった干潟(ひがた)の干拓のために潮止め堤防を築くことが難しかったのです。工事時間が干潮時に限られ、堤防を築く地点が干潟の軟弱地盤で杭の打ち込みや石垣を積むのも困難です。せっかく築いた堤防も全体が完成するまでは常に海水で崩される危険性もありました。
江戸時代に広島市安佐南区の太田川西岸の農地へ水を引いた八木用水(やぎようすい)は現在も活用されており有名です。これは明和(めいわ)5(1768)年に祇園(ぎおん)町(現広島市安佐南区)の大工(だいく)である桑原卯之助(くわばらうのすけ)が完成させた八木から祇園までの幅2m全長16kmの農業用水です。『安芸府中町史通史編』には、この桑原卯之助が「府中村仁保島青崎新開」の築調に念を入れて働いたため「銀三百五拾目」を褒賞(ほうしょう)として与えられたという史料が紹介されています。八木用水の成功で評価を得た桑原卯之助が青崎新開の干拓にも技術と知識を乞われて働いたのでしょう。
工事は安永5年(1776)に竣工(しゅんこう)しました。文政年間に刊行された広島藩の地誌『芸藩通志(げいはんつうし)』では面積は府中村分10町余と仁保島分15町歩となっています。府中村分は約10万平方メートルとなり、前号の地図に合致します。
府中町文化財保護審議会委員
菅 信博
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