■第49回 府中が農村だったころ(9)~青崎新開(3)
2年かけて完成した青崎新開(あおさきしんがい)ですが、塩害が厳しく農地としては不向きでした。『芸藩通志(げいはんつうし)』では青崎新開は面積10町(ちょう)1畝(せ)18歩(ぶ)で高(たか)9石(こく)2合(ごう)と記載されています。1反(たん)当たりの収穫量は3(斗)と4合です。府中村全体では面積226町2反4畝、高2734石4斗8升4合とあり1反当たりの高は1石2斗なので、その低さが分かります。新開は、多くの場合完成後10年間の鍬下年季(くわしたねんき)(無税期間)の後に地味(ちみ)などを考慮し高付(たかつ)け(1反当たりの収穫量を決める)し、年貢高を決めます。青崎新開の場合、高付けされたのは完成後66年も経た天保13(1842)年でした。村では、収穫も少なく土手の破損対応なども続き、完成6年後の天明2(1782)年には、築造の費用として安芸郡から借用していた8貫(かん)837匁(もんめ)の破棄を願い出て認められています。作物では塩害に強い木綿が栽培されましたが、安政2(1855)年には、旱魃(かんばつ)と土手の破損のため新開地に汐(しお)が透(す)き出して1町4反余りの木綿畠(もめんばたけ)が被害を受けました。
農業には向かない土地ですが、近代には様々な形で有効活用されていきます。広島市の青崎地区では明治23(1890)年に入浜式塩田(いりはましきえんでん)による塩作りが始まります。製塩業は明治38年に専売制になり、明治44年に塩田は廃止されます。以後宅地や工場になります。
府中村分では明治27(1894)年には新開地の中を山陽鉄道が開通し、大正9(1920)年には向洋駅が開業します。駅舎・線路地など広い面積が鉄道用地になりました。向洋駅の現在の所在地は安芸郡府中町青崎南です。鉄道に関しては昭和12(1937)年には線路の北側に広島鉄道局教習所(昭和40年に広島鉄道学園に改変、昭和62年に国鉄改革により廃止)が開設されました。現在スーパー藤三の場所で住所は広島市南区東青崎町です。
府中町文化財保護審議会委員 菅 信博
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