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第68回 故郷を知る!!

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徳島県吉野川市

■日本遺産 藍のふるさと阿波~日本中を染め上げた至高の青を訪ねて~

▽大島源左衛門(仁木竹吉父)と川島の浜の地蔵
吉野川の川湊に立つ川島の浜の地蔵は、1843(天保14)年4月に建立され、台座高が2m67cmあり吉野川流域の台座が高い地蔵のなかでは第3位である。台座には、願主として、川島の有力な藍師・藍商だった姓と同じものが刻まれており、その一人に大島源左衛門の名が刻まれている。北海道へ藍作の地を求め、北海道余市郡仁木町を開拓した仁木竹吉の父である。稲田家御家中筋目書によれば、竹吉は天保5(1834)年に麻植郡児島村(児島塚・善入寺島)の小高取、大島源左衛門の7男として生まれ、嘉永6(1853)年に大島家から美馬郡拝原村の仁木大蔵家の仁木伊兵衛のもとへ養子に入ることが許可となっているが、拝原村には居住せず、児島村に居住していた。明治7(1874)年の吉野川の水害に苦しむ流域の農民の窮状、惨状を救済するために渡道を決意し、同8(1875)年1月に郡長に「北海道渡航ニ付御添翰願」を提出し、3月に北海道へ向かい道内を視察した。北海道でも藍草の生育が可能なことを確信し、開拓使へ「北海道藍・煙・菽麦拡張論」を建言し、同9(1876)年1月に種子の取り寄せを誓願した。同12(1879)年5月に「殖民二付願」を開拓使に出し、余市郡への殖民計画と移民団の創設に着手した。同年12月5日に仁木村と村名設置の儀が出され、同13(1880)年3月6日に仁木村の設置が布告となった。
台座に刻まれた父の名は、出身地に唯一残る史料である。
※令和4年新発見。

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