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第13回 ふらっと徳島 歴史と文化財めぐり 阿波の偉人 関 寛斎(せき かんさい)

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徳島県徳島市

助任川沿いの中徳島河畔緑地(徳島市徳島町)に、徳島藩医、町の開業医として活躍した関寛斎(せきかんさい)(1830年から1912年)の胸像(きょうぞう)と顕彰碑があります。
寛斎(かんさい)は、現在の千葉県東金市の農家に生まれましたが、医師を志し、嘉永元年(がんねん)(1848年)、19歳の時に佐倉順天堂の佐藤泰然にオランダ医学を学びました。嘉永5年(1852年)、帰郷して開業すると、後に実業家浜口梧陵に取り立てられ、その援助によって、万延元年(がんねん)(1860年)、長崎に遊学し、オランダ人医師ポンペに最新の西洋医学を学びました。
文久2年(1862年)、徳島藩の医師に召し出され、殿様やその家族の治療にあたり、慶応4年(1868年)には、13代藩主蜂須賀斉裕(はちすかなりひろ)の最期を看取りました。斉裕(なりひろ)との絆は強く、命日には万年山(まんねんやま)の墓参りを欠かさなかったとされます。
戊辰戦争(ぼしんせんそう)にも従軍し、官軍の野戦病院である奥羽出張病院頭取を務めました。敵味方の区別なく傷病兵の治療に当たったとされ、寛斎(かんさい)の博愛精神がうかがえます。
寛斎(かんさい)は民間医療の道を選び、明治6年(1873年)から徳島市徳島本町(現在の県立城東高等学校)で開業し、貧しい人には無料で診察するなど尽力し、「関大明神(せきだいみょうじん)」と慕われました。
その後、明治35年(1902年)に北海道十勝郡斗満(現在の陸別町)で開拓に従事するため徳島を離れました。その際、手にしていた斉裕(なりひろ)の肖像画は寛斎(かんさい)のお孫(まご)さんから徳島城博物館に寄贈されています。
徳島は関寛斎(せきかんさい)の第二の故郷といえます。寛斎(かんさい)の人となりを思い浮かべながら、胸像(きょうぞう)のある助任川沿いを散策してみてはいかがでしょうか。

問合せ:徳島城博物館
【電話】088-656-2525【FAX】088-656-2466

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