渭東地区にある安宅の地名は、江戸時代の水軍に由来します。
紀伊国牟婁(むろ)郡安宅(あたぎ)(和歌山県白浜町)を出発点とする水軍の安宅(あたぎ)氏一族が、戦国時代に阿波国を治めていた三好氏に仕え、大型軍船を駆使して活躍しました。
その軍船の通称である「安宅(あたけ)」から、水軍やその基地を安宅と呼ぶようになりました。
寛永17(1640)年頃徳島藩は、常三島の南東部(徳島大学工学部校舎付近)にあった基地を都市計画の一環で福島の東側に移転しました。
基地には藩船を収める船倉、船の建造・修理を行うドック、役所があり、広さは東西230間(約460メートル)、南北150間(約300メートル)と広大で、城東中学校がその中に収まるほどでした。
基地の移転とともに、船頭や藩船の漕ぎ手である水主、船大工の屋敷が周辺に集められました。
船頭の屋敷は常三島などから安宅へ、水主は住吉島から安宅・沖洲に移され、表口5間・奥行15間の75坪の屋敷が与えられました。
安宅の南側には船大工の屋敷が設けられ「大工島」(現在の大和町)と呼ばれました。四所神社より東の安宅と大工島、北沖洲は、徳島藩水軍が管理し、町奉行の警察権は及びませんでした。
水軍基地の移転は、都市政策の大きな転機になりました。
それまで、藩主の参勤交代は、徳島城から助任本町・大岡を進み乗船する吉野川ルートでしたが、徳島本町を東進し福島橋で連絡用の船に乗り、沖洲の沖で御座船に乗るという新町川コースに移行しました。新町川は殿様の参勤交代だけでなく、城下町の一大商業地である内町・新町に至る、人々の水上の道として江戸時代を通じて繁栄しました。
水軍の基地「安宅」の移転は、城下町の再編を象徴する出来事だったのです。
問合せ:徳島城博物館
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