徳島は河川の乱流する中洲に設けられた城下町で、河川を水上の道として利用し繁栄しました。人々の生活にとって河川はなくてはならないものでしたが、陸上交通の妨げだったため、往来が盛んだった場所には橋が架けられました。
江戸時代、城下町に架けられたのは、寺島橋、福島橋、助任橋、新町橋、住吉島橋、出来島橋、佐古橋、諏訪橋、興源寺橋の9橋でしたが、それでは不便なため、公設・私設の渡船場(とせんば)が合わせて9カ所設けられました。
公設の渡船場(とせんば)では、渡し舟を漕ぐ渡し守が置かれ、藩から給料が支給されました。また、武士や足軽は無料で渡し舟を利用できました。
江戸時代初期、農地から住宅地に転用された富田地区には、多くの武士や足軽が住み、登城する場合には新町橋を利用していましたが、遠回りになるため、渡船場(とせんば)(富田渡し)が設けられたのです。
富田渡しは、現在では富田橋の架けられている、内魚町(徳島市幸町3丁目)と富田地区(徳島市富田浜2丁目)間の新町川に設けられていました。
富田地区は開発が進められ、徳島藩は寛永17(1640)年頃、富田橋架橋を計画し幕府に願い出ていますが、江戸時代は橋を架けることに制限があったこともあり実現しませんでした。
その後、明治時代になり制限がなくなり架橋が続きました。富田橋も明治9(1876)年までには架けられ、往来がしやすくなりました。
現代では日常的に見ることができない渡し舟は、江戸時代には人々の暮らしに欠かすことのできない交通手段の一つだったのです。
問合せ:徳島城博物館
【電話】656-2525【FAX】088-656-2466
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