■師道顕揚之碑(しどうけんようのひ)
岩城中学校の校門のそばに「師道顕揚之碑」が立てられています。岩城中学校に通われた皆さんにとっては馴染みがあるかも知れません。この碑は、明治4年頃から岩城島に開設されていた私学「知新校」の館長であった藤井修之輔の遺徳をたたえて彼から教えを受けた門弟によって大正13年11月に建立されました。
碑を建てた門弟のひとりに、山口玄洞(げんどう)という人物がいます。玄洞は、文久3年(1863年)に、尾道市の医者である山口壽安(じゅあん)の長男として生まれました。父である壽安は、貧しい人から診療代を取らないことから地域の人々に慕われていました。玄洞が数え9歳の時には、父の勧めにより岩城島に渡って知新校に入学し、仁・義・礼・智・信など儒学の徳を学びました。父からは「先日相贈り申し候枕ハ余り高く御座候て弁理よろしからず候得は茶枕相調へ送り進し申すべく候哉御しらせ申さるべく候」(先日贈った枕が高いようならば、茶枕をあらためて送ろうか)など、愛情あふれる手紙がたくさん届いたようです。
しかし、明治10年に玄洞は父の訃報を突然受けることとなり、岩城島で学業を続けることができなくなりました。数え15歳の時でした。玄洞は家族を支えるために荒物の行商をはじめますが、将来の事を考えて、明治11年に母の許しを得て大阪で洋反物店に勤めました。玄洞は、誠実に客に対応したことから、店主や客から信用を得ることができたため、明治14年には独立して洋反物の卸業山口商店を開くことができました。そして、商人となった玄洞は会社を順調に成長させて、大阪を代表する実業家となりました。
玄洞は、築いた資産を基に、各地の神社やお寺、教育や医療機関に多額の寄付を行いました。また故郷の尾道市には、上下水道建設資金の4分の3を負担しました。こうした玄洞の行いには、患者に対して見返りを求めなかった父の姿を見て育ったことや、父の死により岩城島での学業を断念せざるをえなかったことから、困った人に手を差し伸べるという強い想いがあったのだと感じます。
担当:教育課 曽根大地
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