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(特集)国指定史跡「八幡浜街道夜昼峠越」を歩く

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愛媛県大洲市

令和5年3月20日(月)、国は八幡浜市と西予市、八幡浜市と大洲市を結ぶ古道「八幡浜街道」のうち八幡浜~大洲区間の「夜昼峠越」(延べ約1.9km)を国史跡に追加指定しました。
八幡浜街道は、すでに八幡浜市~西予市の「笠置(かさぎ)峠越」と呼ばれる区間が平成29年10月に国史跡に指定されていて、今回は追加指定となりますが、大洲市として初の国指定史跡となります。

標高約318mの夜昼峠を越えるこの道が通行されはじめた時期は不明ですが、江戸時代前期に描かれた絵図にはすでにこの道が表現されていて、少なくともこの時期までには通行されていたことが分かっています。
江戸時代、今回の指定範囲は全て宇和島藩領内に属していました。

この八幡浜市川之内と大洲市平野町野田をつなぐ区間は宇和島藩の商港である八幡浜と大洲藩の城下とを結ぶ主要道でもあったと同時に九州からの遍路(お遍路さん)が通行した道でもあり、当時の状態が比較的良く残されていることが評価され、今回の追加指定となりました。

この指定に先立つこと約1カ月前の2月下旬、この古道が国史跡指定の手続き中だという話を聞きつけ興味がわき、文化スポーツ課の藏本学芸員に案内をお願いし、今回この夜昼峠越を歩いてみました。

大洲市教育委員会文化 スポーツ課 藏本諭(さとし)学芸員
平成26年入庁。
埋蔵文化財が専門で、今回の古道の文化財的な調査を担当。
ドローンでの空撮もこなす。

■出発
スタート地点は八幡浜市の旧川之内小学校裏から。
街道の途中などにはまだ看板のようなものは設置されていませんが、ここから全長約3km(指定の延長は約1.9km)の峠越えがスタートします。
江戸時代、宇和島藩は遍路が通行できる経路を限定していました。特に九州からの遍路は通常、三机(みつくえ)(伊方町)から上陸し、この街道を通行して、平野町野田にあった関所から大洲藩領に入るように定められていました。今回は九州からの遍路と同じ経路で、八幡浜側から大洲側に向けて歩いてみました。

○スタート地点の旧川之内小学校付近。天気は良好。
○旧川之内小学校(2015年3月閉校)の校舎裏建築家松村正恒(まさつね)が設計した。

■坂、坂、坂
歩き出してすぐに坂道の連続。ものの数分で息が上がり始めましたが、調査で山道に慣れている藏本学芸員は何食わぬ顔で歩いていきます。少しでも撮影に時間がかかると、振り返りもせず置き去りにされてしまったこと数回。

○「街道」というイメージからすると細い道が多いが、当時は荷物運搬用の馬や牛の通行にも問題は無かったという。

■道中で出会った仏像たち
街道には大小さまざまな仏像がありましたが、その多くに破損された形跡があります。これは明治時代に行われた「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という仏教排斥(はいせき)運動の痕跡(こんせき)の可能性があるそうです。
一度は、損壊されてしまった仏像たちですが修復されているものも多く、今でも道中の安全を見守ってくれているかのようです。

■いざ大洲へ
まだまだ民家や畑も残る八幡浜市側の道でしたが大洲市との境界に来ると俄(にわ)かに様子が変わります。樹木に囲まれた山道はいかにも「古道」といった感じで先人たちが歩いた道の上にいると実感がわいてきます。
一見、土だけの道ですが、発掘調査では石敷きがある箇所も発見され、当時の重要な街道であったことが改めて示されています。

○調査前と調査中の写真。発掘調査では石敷きのほかに排水用の溝も確認されている。
○ところどころに石積みも残っている。
○街道からは外れるが、旧国道197号の八幡浜市側にある千賀居(ちがい)トンネル。峠への道は勾配を緩くするため「ループ線」といわれるらせん状で、このレンガ造りのトンネルはループ線では日本最古の現役トンネルではないかとされている。

■行き倒れた人々への供養
往来の多かった江戸時代当時は、峠越えの最中に病(やまい)やケガにより命を落としてしまう人も少なくなかったようです。そのような人々を当時の住民は手厚く葬(ほうむ)ったようで、お堂やお墓が建てられ今でも地元の人によって管理されているものもあります。

○街道の近くにある「即空是信士」と書かれた墓標。裏には摂津国と天命5(1785)年の文字があり大阪の商人のものと思われる。
○享和2(1802)年の遍路墓と思われる墓石をおさめた建物。今でも地域の人よって手入れがされている。敷地内には明治時代の水準点があり現代の測量と比べてもズレは僅かというその技術の高さに驚かされる。

■峠越えを終えて
今回歩いた夜昼峠は、明治40(1907)年に新たな道(旧国道197号)が整備されるまで八幡浜~大洲間の主要経路、また、それ以降も住民の生活道路として利用されていて、地元の人の話によると、入学式などには父母が子供の手を引きながら着物に雪駄でこの峠道を歩いていたそうです。
今では人通りも無くひっそりとしたこの道も、近世を中心に多くの人で賑(にぎ)わっていたのでしょう。お遍路さんたち先人がどんな願いを胸にこの道を踏みしめていたのかと思いを巡らせながら歩いてみるのも楽しいかもしれません。

○今回の終点であるJR予讃線夜昼トンネル付近。藏本学芸員は笑顔だが、こちらは疲労困憊(ひろうこんぱい)。

■夜昼峠の語源
なぜ「夜昼」というのかについては。主に3つの説があるようですが、未だにはっきりはしていません。
(1)大洲は霧が多いため朝は暗く、八幡浜側は昼なのに大洲側は夜のように感じるから
(2)大洲を夜に出発しても八幡浜に着くのは次の日の昼になることから
(3)峠から見る大洲の霧が波のように動くさまを表現した「寄る・引く」が転じたもの

○一番奥に積雪した石鎚山がわずかに見える。先人たちもこの景色を見ていたのだろうか。

■西予市とを結ぶ「鳥坂(とさか)峠越」も国史跡指定に向け準備中です
夜昼峠を歩いた直後、藏本学芸員から「実は西予市側の鳥坂峠越も指定を目指して準備中なんですよ」と驚きの発言が。ということで、午後からは西予市~大洲市間の峠越えに本日2度目のチャレンジ。
こちらの指定についての結果はまだ先とのことですが、国の史跡に指定され次第、みなさんにお伝えする予定です。

※詳しくは紙面をご参照ください

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