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【特集】夢を追い続けた男 十河信二(2)

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愛媛県西条市

■激動の人生を支えた妻キク 葬儀で「さよならっ」と叫んだ信二
信二の波乱万丈な人生は、キクの存在なくしてありえません。2ページで紹介したように、信二が23歳、キクが19歳のときに2人は学生結婚しました。函館市出身のキクは整理整頓が苦手でしたが、不器用なりに信二を支え、時には大声で叱ることも。 
1956年、キクが突然倒れ、2年間闘病生活が続きました。信二は新幹線実現へ最も忙しい時期でしたが、食事を作るなど丹念にキクの世話をし、寝るときには互いの指を赤いひもで結び「何かあれば引っ張りなさい」というエピソードも。仕事場ではキクの話を、キクの前では仕事の話を一切しなかった信二。キクはもっとも信二のことを理解していたそうです。生涯2人は寄り添い、愛し合いました。

■東京駅で見守る信二
東海道新幹線の18番・19番ホームには、十河のレリーフを埋め込んだ記念碑があります。当時レリーフを見た信二は、「似とらん」と不満だったと伝えられています。

■私にとっての十河さん
十河さんと関わりのある方や詳しく知る方にお話を伺いました。

▽計り知れない原動力。とにかくすごかった
十河光平(こうへい)さん
十河信二の孫(四男和平の長男)。幼少期は十河信二と同居。77歳。

当時は秘書の方がよく怒られていたのを覚えています。とても迫力のある声でした。
孫には優しかった。私は模型などを作るのが好きだったので、よく作品を見せに行きました。
私のことを「技師長」って呼んでくれたのが一番の誇りですね。
祖父は趣味のない人で、大体やることといったら、新聞、雑誌、各局のニュースを見る、そればっかりでした。よく言われたのは「他の人のことも考えなさい」と。例えば共用のスリッパを使ったら揃えておくとか。その教えは私自身、今でも大事にしています。新幹線のベースを作った祖父を一言で表すと「気骨」のある人。自身のことより日本のことを常に考えていた。自分の信念に従い、どんな苦難にも立ち向かった強い精神力は只々すごいと思います。

▽自分より国民のことを考える、海のように大きい人
原朗(あきら)さん
歴史・経済学者。東京大学名誉教授。十河信二が郷土に託した資料を調査・研究。

30代の頃、研究で満鉄のことを調べるために、満州経済調査会の委員長であった十河さんの存在が欠かせなかった。それが研究を始めたきっかけです。関東軍(日露戦争後に中国関東州に駐屯した軍事組織)と手を組むなど普通の人ではできない。それだけ包容力が大きい、「大物」ですね。「十河」さんより「十海」さんかな。何かやろうとしてうまくいかないことが多い十河さんでしたが、たった一つうまくいったのが東海道新幹線。世界全体の鉄道が斜陽産業に入る時代だったけど、それを十河さんが新幹線開通によって一変させました。十河さんに会えたら「あなたは70代に新幹線を作り上げて大変偉い。私は85歳で50年に一度の『鉄道百五十年史』を作るのに必死なんですよ」とご報告しましょうか。

▽もしお会いできたら、感謝の気持ちを伝えたい
つだゆみさん
西条市出身。漫画家。書籍「夢の超特急ひかり号が走った十河信二伝」を手掛ける。

こんなに偉大な先輩がいらっしゃることに、同窓としての誇りを感じました。と同時に漫画の依頼をいただくまで、実は十河さんをほとんど知らなかったので、西条高校同窓にしっかり伝えていくべきだと感じました。
感動したのは、晩年、妻のキクさんの闘病を支えたエピソード。国鉄総裁として忙しい時期だったのに、毎日食事を作り、寝るときは指を赤いひもで結んで、何かあったら引っ張りなさいと言ったといいます。
十河さんがいなかったら新幹線は走っていません。また新幹線の成功に触発されて、世界の高速鉄道が発展しました。十河さんの偉業は世界の鉄道も復活させたのです。カミナリ親父と言われていますが、愛情が深く本当に日本のことを愛して、日本のために尽くした人です。

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