■この美しい景色が続くように
私たちの生活に欠かせない水。
この水は、水源地である長野県王滝村・木曽町から愛知用水を流れて、大府市に届いています。
蛇口をひねれば水が出てくる日常も、稲穂が黄金色に輝く田園風景も、盛んなものづくり産業も、かつては当たり前ではありませんでした。
一日も休むことなく命の水を守るために尽力する水源地。
しかし、その裏には深刻な課題が潜んでいました。
水源地の現状を知り、共に歩み続けるため、私たちにできることを考えてみませんか。
■人々の生活を守りたいと夢を追い続けた二人の英雄
○暮らしを支える水
昭和36年に通水した愛知用水。
愛知県の尾張丘陵部から知多半島にかけての一帯に、上水道用・農業用・工業用の水を供給しています。
大府市は温暖な気候に恵まれ、名古屋市に近いことから、古くから農業が盛んでした。今でこそブドウが有名ですが、昔の特産品といえば大根で、大府駅から列車で京阪地方に出荷されるほど、県内有数の大根の名産地でした。
○水不足に悩む日々
大府市では、愛知用水の誕生前から、さまざまな農作物を生産していました。しかし、知多半島は夏の雨が少なく、大きな川もないことから、干ばつに悩まされていました。
そのため、先人は知恵を絞り、市内に数多くのため池を造り、水の供給に努めながら営農を継続。それでも雨が少なく、ため池の水が満水にならない時もあり、せっかく植えた稲が実らないこともありました。
○馳(は)せる思い
昭和中期、水不足の課題解決のため、愛知用水の整備に尽力したのが、知多市出身の久野庄太郎さんと大府市に住んでいた濵島辰雄さんです。
久野さんは小学校卒業後、家業の農業に専念。明治末期、知多郡農業会副会長を務めていた森田萬右衛門の「三河の明治用水のように、木曽川から水を引き、用水を造り、農業を根本的に改良するべきである」という言葉を耳にして、愛知用水の整備に向けて動き出します。
一方、濵島さんは農業関係の学校で学んだ後、昭和14年に南満州鉄道調査部に入社。草の生育に不可欠な水を確保するためのダム計画を作成します。昭和19年、尾張東部から知多半島にかけての大干ばつを受け、かつてのダム計画を思い出し、木曽川から導水して知多半島まで水を引く図面を書き始めました。
○二人の思いが一つに
別々の場所で同じ夢を描いていた久野さんと濵島さん。この二人を引き合わせたのは、久野さんを中心とした愛知用水の整備の全県的な運動を報道した中部日本新聞(現在の中日新聞)の記事でした。
この記事を見て衝撃を受けた濵島さんは、久野さんの家を訪ね「ふるさとを緑の大地に変えよう」と誓い、二人は固い握手を交わしました。
○愛知用水の誕生
二人の尽力により、愛知用水概要図が完成。アメリカと日本の技術者が結集し、昭和36年9月30日に、岐阜県加茂郡八百津町から愛知県知多郡南知多町に至る112キロメートルの幹線水路と、幹線水路から分岐して農業用の水を導く支線水路1012キロメートルからなる、愛知用水が通水しました。
現在、大府市では小学校の道徳の副読本『大府市にゆかりのある人』を制作。この副読本に愛知用水の生みの親である濵島さんを掲載し、小学4年生の授業で活用しています。
参考文献『大府市誌』『愛知用水と営農』『愛知用水土地改良区創立七十周年記念誌』
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