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しんしろー家康紀行ー其の十五

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愛知県新城市

■大善寺
長篠城から新城城へと移った奥平信昌と亀姫夫妻。二人は新城で家昌、家治、忠政、忠明、後に大久保忠常の妻となる娘と5人の子宝に恵まれました。天正18年(1590)に徳川家康の関東国替えに伴って、上野国(群馬県)宮崎に移るまでの14年間、今の新城の基礎を作り上げましたが、その中のひとつに大善寺の建立があります。

▽新城時代の亀姫
亀姫は徳川家康と築山御前の間に生まれました。桶狭間の戦い直後のことでした。この戦いで今川義元が討ち死にしたため、家康は独立を果たしますが、三河国を平定するまで苦労の連続でした。亀姫は母築山御前、兄信康とともにそうした苦労の中で過ごしていました。そうした中、大きな転機となったのが奥平信昌との婚約でした。この婚約は、いわゆる政略結婚でしたが、二人は仲睦まじく幸せであったと考えられています。
しかし、亀姫の周辺で大きな時代の風が吹き荒れ始めていました。
天正7年(1579)、母築山御前と兄信康が武田方との内通を疑われ、自害を余儀なくされました。今でも武田方との内通が事実かどうかはっきり分かっておらず、この事件は家康に関する大きな謎の一つとされていますが、亀姫にとってみれば母と兄を一度に失うという大きな悲しみに包まれたことだったでしょう。

▽大善寺の建立
新城城が完成したとき、亀姫は「この地に浄土宗のお寺はあるか」と尋ねたと伝えられています。浄土宗は徳川家に縁の深い宗派でした。片山に大膳庵という小さな庵があったので、天正5年(1577)にこれを取り立てて現在の場所に移して大善寺としました。やがて、信昌はこの寺で長篠・設楽原の戦いの戦者を供養すると共に、母と兄の死に遭遇した亀姫は母築山御前の供養も執り行うようになりました。大善寺の山門の脇にある塀には徳川家の家紋である三つ葉葵が施されています。江戸時代、三つ葉葵紋を軽々しく使うことは出来ませんでした。大善寺は家康の長女亀姫との縁から寺紋として三つ葉葵紋の使用が特別に許されていました。このようなところからも徳川家との深いつながりを推し量ることが出来ます。
幕末の安政7年(1860)に、新城のまちなかで発生した大火で大善寺も類焼し、様々な記録類も焼失してしまったため、信昌や亀姫ゆかりの古文書もなくなってしまいました。しかし大善寺が二人にとって、とても大切にしていたお寺の一つであったことは間違いありません。

問合せ:設楽原歴史資料館
【電話】22-0673
ID:812918781

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