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しんしろー家康紀行ー其の十

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愛知県新城市

■三河武士の意地〜弾正山への布陣〜
織田信長とともに極楽寺址に到着した徳川家康。ここで双方の重臣たちが集まり、これからどのように戦うべきかを決める軍議が行われました。設楽原の地形を利用して、馬防柵をどのように築くか、鉄砲隊をどのように配置するか、この軍議の中でたくさんの事が決められましたが、最も大切なことは連合軍3万8千人をどのように配置するかでした。

▽家康の想い
家康にはきっと複雑な想いがあったと考えられます。信長の援軍がなくては武田軍に勝つことはできない。しかし、援軍を得れば対等であった同盟関係が崩れる可能性がありました。また、家康の家臣たちは「ここは三河だ!我々が主導権を持って戦うべきだ」という声もありました。
家康は軍議の席で、自ら進んで設楽原の中で最も激しい戦いが行われると予想される場所、弾正山にあった八剱神社付近に布陣することを申し出たと伝えられています。その結果、設楽原の南半分(東郷中学校より南)に徳川軍が陣地を置くこととなりました。
弾正山と呼ばれる台地は東郷中学校付近で終わり、そこから南は田畑が広がる起伏の少ない地形となります。ここ、連合軍の陣地の中で最も弱い場所であり、間違いなく武田軍が猛攻を仕掛けてくる場所でもありました。ここを破られると連合軍の勝利はあり得ませんでした。この正面には武田軍の中でも最強といわれた山県昌景の陣地がありました。
まさに徳川家康やその家臣たちの三河武士の意地の現れでした。

▽三河武士の戦いぶり
家康の家臣たちは武田軍相手に勇猛果敢に戦いました。本多忠勝は三重の柵を突破してきた内藤昌秀を柵の外へ追い返し、大久保忠世と大久保忠佐の兄弟は獅子奮迅の活躍をしました。その動きを遠くから眺めていた織田信長は「あの旗印の武将は誰だ」と家康に尋ねたと言われています。大久保兄弟であるということを知った信長は「敵と戦い始めたら、膏薬(塗り薬)のように敵にへばり付いておる。たいしたものだ」と大いに褒め称えたと伝えられています。
こうした徳川軍の活躍で、山県昌景を討ち取り、それをきっかけに武田軍の敗走が始まっていきます。
織田信長の援軍を得た上での勝利でしたが、徳川家康の意地とその家臣たちの強さを改めて知った信長との関係は本能寺の変まで変わらず続くこととなりました。

設楽原歴史資料館
【電話】22-0673
ID:798516541

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