■土屋右衛門尉昌次戦死之地
設楽原決戦場跡に再現された馬防柵の中に石碑が立っているのをご存知でしょうか。この石碑は、天正3年(1575)の長篠・設楽原の戦いで戦死した土屋昌次を偲んで子孫の手により建立されたものです。
土屋昌次は武田信玄に仕えた若い武将で、永禄四年(1561)年の第4次川中島の戦いで初陣を果たし、信玄本陣が上杉軍の猛攻を受け、危機にさらされた際に信玄の側で奮戦したといいます。信玄からは厚い信頼を寄せられており、その後、武田家譜代家老の土屋氏の姓を許されたと伝わっています。
信玄が死去した際に殉死をしようとしましたが、同じ武田家臣の高坂弾正に説得されて思いとどまったというお話が残されており、その忠誠心の高さが伺えます。
その後、長篠・設楽原の戦いでは、織田・徳川連合軍の鉄砲を突破し、三重に張り巡らされた馬防柵の第一、第二の柵を破り奮戦しました。しかし、第三の柵を前にして鉄砲の銃弾をあびて、命を落としたと伝えられています。
昌次は主君のために討死する覚悟でこの戦いに臨んでおり、敵も味方もその鬼気迫る壮絶な最期をたたえて惜しまなかったという話が地元には伝わっています。
皆さん、馬防柵に来られる際には、この石碑に目をとめて、昌次の最期に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
問合せ:設楽原歴史資料館
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