■整備が進む大野田城
新城には戦国時代のお城が多く遺されています。長篠城や野田城、宇利城のように戦いの舞台となった城もあれば、古宮城のように素晴らしい縄張が遺されている城もあります。今回は地域の皆さんによって、整備されつつある大野田城について紹介をします。
▽歴史の中の大野田城
大野田城は中市場にある城跡ですが、これまで野田城の陰に隠れてあまり重要視されてこなかった城でした。しかし、この地域の歴史を紐解いていくと、大野田城も重要な役割を担っていたことが分かります。
武田信玄による野田城攻めにより、野田城は大破してしまいました。このため、城主菅沼定盈は大野田にあった古砦を修繕して大野田城と名を改め、野田城の修復が終わるまでの間、居城としました。しかし、天正3年(1575)、武田勝頼の侵攻のときに、定盈は大野田城に火を放ち、城を退去したと言われています。
▽見えてきた大野田城の縄張
奥三河は徳川家と武田家の争いの地でもあり、一時的とはいえ、家康の家臣である菅沼家の居城となっていたので、大野田城は防御性に優れていたお城だったようです。お城の周囲は水田で囲まれ、天然の堀の役割を果たしており、北方には幾重もの堀がめぐらしてあったようです。
現在、地域の皆さんが大野田城の環境整備を行い、少しずつその全容が見え始めています。
問合せ:設楽原歴史資料館
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