■山県三郎兵衛昌景之碑(やまがたさぶろうべえまさかげのひ)
天正3年5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍による長篠・設楽原の戦いが繰り広げられました。その中で活躍し、散っていった武田軍の武将に山県昌景(やまがたまさかげ)という人物がいます。
昌景は、武田四天王の一人であり、武田信玄、勝頼の二代に仕えました。通常、武士の鎧は、黒色を使うことが多いですが、昌景とその家臣たちは赤一色の鎧兜を身に付けていたことから、「武田の赤備(あかぞな)え」と呼ばれ、恐れられていた強い人物でした。
長篠・設楽原の戦いでは、徳川軍の大久保忠世(ただよ)・忠佐(ただすけ)兄弟と激突し、押しつ押されつの攻防を9度繰り返し、苦戦させました。しかし、連合軍の放った銃弾を浴びて命を落としてしまいます。その際、走り寄った家臣の志村又右衛門(またえもん)が、主君の首を切り落とし、故郷である甲州へと持ち帰ったと『甲陽軍鑑』に記されており、その様子が『長藤合戦図屏風』にも描かれています。一方、『かるたでつづる設楽原古戦場』によると、胴体は「供養をお願いする旨の書状」と短刀「小烏丸(こがらすまる)」を添えてこの地に残し、戦いが終わった後、それを見つけた村人たちが、気の毒に思い、その遺体を手厚く葬ったのがこの場所とされています。『小鳥丸』等は失われてしまいましたが今もこうした逸話と共に地元の方々によって大切に守られています。
問合せ:設楽原歴史資料館
【電話】22-0673
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