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愛知県東郷町

■丹羽氏重(にわうじしげ)の城が東郷町にあった?
3月号は、丹羽氏重(前編)についてのお話でしたが、今回は丹羽氏重の居城・傍示本城(ほうじもとじょう)の歴史についてお話しします。
氏重は1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」が起こるまでの数年、短期間ではありますが、傍示本城主としてこの地を治めました。丹羽氏が傍示本城に入る前は、地元の領主・加藤氏が在城していたと伝わります。その歴史は鎌倉時代後期にまで遡ります。3代目の加藤時利(かとうときとし)は祐福寺の造営(ぞうえい)にも関わったとされる人物です。しかしながら、傍示本を丹羽氏が治めるようになった経緯など、詳しいことは何も分かっていません。氏重はこの城でどんな暮らしをしていたのでしょうか。傍示本の地を馬で駆け回っていたかもしれませんね。
現在、傍示本公民館の傍に「傍爾本城址(ほうじもとじょうし)」の石碑がありますが、城址は公民館から南側一帯と推定されています。整地や埋め立てにより、城の遺構(いこう)(※1)の状況は不明ですが、城の東側の断崖は当時のおもかげを残しています。廃城後も北・南・西の三方に堀(※2)が残存していたようです。傍示本城は土造りの城で方形の「城館(じょうかん)」であったと思われます。「城館」とは、その土地を治める領主の住居に堀や土塁(※3)を巡らせ、防御機能を高めた建物のことです。また、公民館がある「市場屋敷(いちばやしき)」の地名からは城下が賑わっていたこともうかがえます。傍示本城は一体どのような姿をしていたのでしょう。想像は膨らむばかりです。
次回は、傍示本城だけじゃない?東郷町にある丹羽氏ゆかりの城、諸輪北城・中城についてご紹介します。
※1 遺構…昔の建造物や生活の痕跡が地面や地中に残ったもの
※2 堀……土を掘って造った溝のこと
※3 土塁…土を盛って造った土手のこと
[文]岩崎城歴史記念館 学芸員 内貴健太

問い合わせ:生涯学習課
【電話】0561-38-7780

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