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愛知県東郷町

■東郷町ゆかりの武将・丹羽氏重が歴史を動かした?(後編)
池田恒興の大軍勢を迎え撃つことに決めた氏重、その結末とは…。『丹羽氏軍功録』(※1)には岩崎城の戦いにおける氏重の様子が詳細に記されています。氏重は紺糸の鎧を着て、芦毛の馬にまたがり、わずかな城兵と共に大手門から出撃しました。槍を振るって敵兵を突き伏せ、何度も追い返します。その勢いに押され、池田勢も負傷者が続出しました。これで氏重は「天然痘」を患っていたというのですから、身体・精神ともに強靭すぎますね。もしくは、病を忘れるほど必死の状況だったのかもしれません。氏重は負傷しながらも激戦を繰り広げますが、最終的に池田家家臣の土肥七郎右衛門に討たれ、城兵も悉く討死しました。討死場所は城外の石橋辺りと伝わりますが、これを信じるのであれば、氏重は最前線で戦っていたことになります。大軍を前に逃げてもいいところを、氏重はなぜ戦ったのでしょうか。それは家康のもとにいた兄・氏次や丹羽家の先行きを願ったものであった可能性が考えられます。『丹羽氏軍功録』は自家の史料であるため、やや史実を誇張する形で記されていることを前提に解釈しなければなりません。ですが、氏重が大軍相手に逃げずに戦ったことは事実であり、氏重が引き起こした戦いは長久手での家康の勝利に大いに貢献しました。※2東郷町で生きた若き武将・氏重。彼の英雄譚に今でも多くの人々が感銘を受けています。次回は「小牧・長久手の戦いと東郷町」の後編です。(前編は、2023年7月号に掲載しています。)

※1 『丹羽氏軍功録』…1790年(寛政2年)に丹羽氏福(1762~1843)が編纂。丹羽氏代々の武功を詳細に記録。
※2 『岩崎并長久手軍記(いわさきならびにながくてぐんき)』(1739年(元文4年)に丹羽氏張(1699~1781)が書き記したもの。岩崎城主・丹羽氏次が1585年(天正13年)に残した書付を含む。)に、家康が氏重を称える一文があります。(写真参照)

【文】岩崎城歴史記念館 学芸員 内貴健太

▽『岩崎并長久手軍記』(岩崎城歴史記念館蔵)赤枠部分が、家康が氏重を称えた一文です。
原文:「今度の働きと申ハ我愚按に、眼前に岩崎の城にて勘助弟次郎三郎、少人数にて支へ候故、我等抔ハ彼が障とらせし故、(後略)」
訳:「この度の武功は私(家康)が考えるに、敵を目の前に岩崎城にて丹羽(勘助)氏次の弟・(次郎三郎)氏重が少人数で防ぎ止めたゆえ、我らの救いとなったのは彼が敵を妨げたからであり、(後略)」

問い合わせ:生涯学習課
【電話】0561-38-7780

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