文字サイズ
自治体の皆さまへ

〔連載コーナー〕歴史探訪クラブ 其の231

41/59

愛知県田原市

■田原藩の洋式帆船(はんせん)順応丸、日本の海を駆ける
田原藩は幕末(江戸時代末期)の一時期、西洋式の帆船を保有していました。しかも、この帆船は藩が波瀬の浜で自ら建造したものでした。
建造の目的は軍備よりも、交易に利用して窮乏にあえぐ藩の財政改善に役立てたいという思いがあったようです。この時代の田原藩は地元産の海産物(ナマコやイガイ)を加工して特産品開発を試みたり、蝦夷(えぞ)地(北海道)の開発に参入しようとするなど、厳しい状況に対してなかなか挑戦的でした。
折しも1854(安政元)年11月、伊豆へ開国交渉に来ていたロシア船が、安政の大地震による津波で難破する事件がありました。ロシア人たちが帰国するために、伊豆の戸田(へた)(現在の沼津市)で、彼らの指導のもと西洋式の帆船(スクーナー船)が建造されることとなったのですが、この時、習得した技術で、幕府や長州藩は新たに自分たちの帆船を作ることとなりました。田原藩もこの流れに加わります。藩士を長州に派遣して、殿様に協力の約束を取り付け、経験のある船大工を田原藩に呼び寄せて帆船を建造したのです。その名も「順応丸」と名付けられたこの船は、1858(安政5)年から5年間に渡って、地元の特産物や田原藩の人や荷物を運び、各地の産物の収集などにも活躍しました。例えば、江戸に大豆や干鰯(ほしか)(イワシを日干しして肥料にしたもの)を輸送したときには30両、材木を運んだ時には50両の利益が出て、時の家老が安心したという記録が残っています。
この順応丸を建造する時の材木片の一部を船大工が故郷の伊勢へ持ち帰っていました。およそ90年後、それを知った田原藩の士族が在りし日の順応丸の姿とその由来を書いた材木片が、現在は田原市博物館に収蔵されています。
(学芸員 木村洋介)

問い合わせ:
文化財課(博物館)【電話】22-1720
吉胡貝塚資料館【電話】22-8060
渥美郷土資料館【電話】33-1127

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU