■渡辺崋山に招聘(しょうへい)された儒学者
江戸時代の儒学者の伊藤鳳山(いとうほうざん)(1806~1870)は、出羽国庄内藩(でわのくにしょうないはん)酒田(現在の山形県酒田市)に生まれました。13歳の時に父母と兄が亡くなり、苦労を重ね育った鳳山は、16歳の時に江戸の儒学者の朝川善庵(あさかわぜんあん)の塾に入門しました。秀才であった鳳山はやがて塾頭となり、その頃に渡辺崋山と知り合いました。そして、天保9(1838)年、崋山の推挙によって田原藩に仕え、藩校成章館の教授に就任します。藩校成章館は現在の田原中部小学校の東側にあり、敷地内に客間を建ててもらい暮らしていました。当時の建物は残っていませんが、田原中部小学校の正門に成章館跡の石碑が建てられています。成章館の名は現在の県立成章高校に引き継がれています。
崋山が蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)で捕えられると、鳳山は救済に奔走しました。老中水野忠邦らに嘆願書を送り、幽居(ゆうきょ)後の崋山へ度々見舞いに行きました。しかし、これらの行いを田原藩内の重臣は問題視し、鳳山は敬遠されます。天保11(1840)年、鳳山は辞職して京都で塾を開き、嘉永2(1849)年、師の朝川善庵が亡くなったのを機に江戸へ戻り塾を開きました。鳳山の著作は儒学や兵学もあり、特に「孫子」の注釈書である「孫子詳解」は高い評価を得ています。
元治元(1864)年、渡辺小華(わたなべしょうか)らの招聘によって再び成章館で儒学を教えることになりました。そして明治3(1870)年に逝去し、蔵王霊園に埋葬されています。
(学芸員 三宅良宜)
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