■No.112碧南の寺を巡る(5)戦争の記憶残る安専寺 その一
旧棚尾町役場の資料の中に「疎開学童ニ関スル綴(そかいがくどうにかんするつづり)」があります。昭和十九年(一九四四)六月の閣議決定に基づき、名古屋市では七月十三日に南押切(みなみおしぎり)国民学校長、吹上(ふきあげ)国民学校長らが学童集団疎開のための調査に訪れました。メモには、妙福寺(みょうふくじ)(志貴町)・安専寺(あんせんじ)・光輪寺(こうりんじ)(両寺棚尾本町)の収容人数と病院情報があります。十日後には愛知県と名古屋市から指示や依頼が町に届きました。
さらに、月末には東海地方事務所長名で、宿所の設備、食糧の需給に関する協議会が開かれ、東海三県にまたがる地域への集団疎開が大きな不公平なく実施されるよう配慮されたことがうかがえます。
次にとじ込まれていたのが名古屋市堀田(ほりた)国民学校から安専寺にあてた集団疎開をする五年生男子の名簿です。昭和二十年四月からは三年生になった学童も疎開してきました。
名古屋市の研究資料には、堀田国民学校の集団疎開児童は二八六人で高浜・新川・棚尾の三町に分宿したとあります。ちなみに旭村(あさひむら)(鷲塚(わしづか)・日進(にっしん))には前津(まえづ)国民学校一四五人が来ました。明治村(めいじむら)(西端を含む)と大浜町に受入校はありません。
棚尾国民学校児童の記憶では、その日、棚尾国民学校の学童も名鉄三河線の棚尾駅まで白い帽子に白い服のいかにも都会っ子の一団を、羨望(せんぼう)を抱きつつ出迎えたそうです。集団疎開は転校ではなく、堀田の先生が堀田の学童を棚尾で教えるのです。宿舎に引率の教師と寮母はいましたが、子どもたちはホームシックで夜中に次々と泣き出したそうです。朝夕の食事と弁当も作ってもらえましたが、物資欠乏の時代、やせ細ってしまう子もいました。
昭和十九年十二月と同二十年一月に大地震が立て続けに起こり、一月の三河地震では吉浜(よしはま)(高浜市)の正林寺(しょうりんじ)と寿覚寺(じゅかくじ)が倒壊して堀田国民学校の児童・教師・寮母計十三人が亡くなりました。安専寺では皆無事でしたが、一時棚尾国民学校内で避難生活をしました。お寺もしばらくはテント暮らしだったそうです。
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