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碧南の歴史へのいざない

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愛知県碧南市

■No.110碧南の寺を巡る(3)寺の中に学校ができたその二
前号では大浜郷学校(ごうがっこう)を紹介しました。額田県(ぬかたけん)(明治四年十一月〜五年十一月)が設立を奨励した郷学校を、碧南市域内では、学制頒布(がくせいはんぷ)があった明治五年(一八七二)のうちに多くの村で開校しました。郷学校として、大浜北、棚尾、平七・東浦、伏見屋新田、西端が分かっています。
大浜北郷学校は西光寺(さいこうじ)(浅間町)庫裡(くり)、棚尾郷学校は妙福寺(みょうふくじ)(志貴町)の境内にあり、平七・東浦郷学校は東正寺(とうしょうじ)(平七町)本堂を借りました。伏見屋新田郷学校は場所を伏見屋新田の説教所(せっきょうじょ)と記し、現在の常瑞寺(じょうずいじ)(伏見町)にあたるとの情報もあります。貞照院(ていしょういん)(霞浦町)の僧侶らがこの学校の教師を務めました。
鷲塚村は明治六年(一八七三)に愛知県が出した義校規則(ぎこうきそく)により「義校」を開校しました。
「義校」はもともと名古屋県が始めた学校で、内容は郷学校と同様であったようです。額田県が愛知県に合併すると「義校」への一本化が図られました。
四月の開校時、鷲塚村内の民家二軒を義校とし、神有(かみあり)の応春寺(おうしゅんじ)・照光寺(しょうこうじ)(いずれも天神町)の長屋・庫裡と二本木の民家の控え家、荒子(あらこ)の等覚寺(とうかくじ)(荒子町)庫裡の四ヶ所を支校としました。県は、学校の開設に当たり当面は寺院や民家を借用して教室に充ててよいとしていたのです。
ところが、愛知県はその年に学区を整備しました。鷲塚村は六ヶ所の義校及び支校を九月に廃止統合して「第五十一番小学鷲塚学校」として願隨寺(がんずいじ)(鷲塚町)の庫裡を借用して改めて開校しました。教員は川端蓮成寺(かわばたれんじょうじ)の前住職と村の有力者で近藤坦平(こんどうたんぺい)の祖父に学んだ榊原(さかきばら)氏でした。しかし、願隨寺は鷲塚村の全体から見ると東に偏った位置にあり、荒子辺りからは遠すぎました。そこで、十一月からは寺を出て再び二本木の民家を借りました。
翌年、県は校舎新築を奨励する布達(ふたつ)を出します。太政官(だじょうかん)から地所(じしょ)下げ渡しの達しがあり、鷲塚村は、明治十年(一八七七)九月、川岸浜(かわぎしはま)一番地(旭町)に東部の米倉を移築して平屋建て二棟を校舎としました。村民の寄付と集金で作られました。

問合せ:文化財課内市史資料調査室
【電話】41-4566

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