文字サイズ
自治体の皆さまへ

碧南の歴史へのいざない

24/55

愛知県碧南市

■No.113碧南の寺を巡る(6)戦争の記憶残る安専寺(あんせんじ)その二
前号では安専寺が学童集団疎開の宿所になったことを書きました。政府は防衛と戦時増産を図るため空襲の目標となりそうな大都市から一般生活者や建物を退去させました。地方に縁故あるものは自力で(地方に協力を命じ)移転させ、縁故なき学童を集団疎開させたのでした。
受け入れ側も都会の子を羨望(せんぼう)の眼差しで見ながら、学校が窮屈になったのに不満も言わなかったのは戦時だったからでしょう。
昭和二〇年(一九四五)八月に日本が連合国に無条件降伏して戦争は終わりましたが、五月の名古屋空襲で堀田国民学校校舎は全焼、学童の家族も被災していました。集団疎開の解除、帰校は十月になりました。
棚尾国民学校でお別れ会が開かれました。おやつのサツマイモを堀田の子は残さず食べ終えたのに棚尾の同級生の机上に芋の薄皮が残っているのに気づき、気まずい思いをした子がいました。疎開の子は薄皮も残せない空腹を抱えていたのです。
棚尾町(たなおちょう)は町内各字(あざ)(現在の町区分)に割り当て、草履(ぞうり)三八五足を編んで帰宅の土産としました。当座の履物(はきもの)として役に立ったはずです。
ところで、安専寺には現在梵鐘(ぼんしょう)が三口(こう)あります。最も古いものは安永(あんえい)五年(一七七六)の銘(めい)があり、碧南市に現存する平坂(へいさか)村の太田庄兵衛(おおたしょうべえ)家の作品として最古のものであり、平成二六年(二〇一四)碧南市の指定文化財になりました。
この梵鐘は昭和一七年(一九四二)に他の寺院の梵鐘などとともに「金属供出」されました。鋳溶(いと)かされて兵器になるはずでした。ところが、昭和二一、二年頃、埼玉県熊谷(くまがや)市の大正寺(だいしょうじ)に払い下げられ、平成一五年(二〇〇三)には深谷(ふかや)市の善法寺(ぜんぽうじ)に移されました。この梵鐘の行方は昭和五三年(一九七八)には連絡が入っていましたが、平成二三年(二〇一一)になって元の安専寺にお迎えできました。鐘に心があったら、昭和三八年(一九六三)に建立された新しい本堂に目を見張り、故郷で平和を満喫したことでしょう。

問合せ:文化財課内市史資料調査室
【電話】41-4566

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU