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とよあけ桶狭間ガイドボランティアが教える 桶狭間の戦い

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愛知県豊明市

◆桶狭間の戦いとは
永禄3年(1560)、駿河(するが)(静岡県東部)の今川義元(いまがわよしもと)は、遠江(とおとうみ)・三河の兵も引き連れ25,000人とも言われる大軍で尾張に攻め込んできた。5月19日朝、沓掛城を5,000人で出た義元軍は大高(おおだか)城へ向けて進軍を開始した。今川方の松平元康(まつだいらもとやす)(家康(いえやす))は前日大高城に兵糧を入れ、朝鷲津(わしづ)・丸根(まるね)の砦を陥落させた。尾張の織田信長(おだのぶなが)は早朝報せを受け、主従6騎で清洲(きよす)城を出て熱田神宮へ向かった。善照寺(ぜんしょうじ)砦から佐々(さっさ)・千秋(せんしゅう)隊300人を先鋒隊として出発させ、中島砦まで行くが、集まった信長軍は3,000人で、本陣攻撃隊は2,000人であったという。佐々・千秋隊は桶狭間村で昼頃今川軍の先頭に襲いかかる。後方1kmの田楽狭間(豊明)でその報せを聞いた義元は輿を降り、兵を先頭へ送る。やがて佐々らに勝利した報せと、鷲津・丸根の砦での勝利を喜び、豊明の古戦場を本陣として勝利の宴を始めた。その時西北より黒雲が沸き起こり暴風雨となった。信長は雨がやんだ午後2時、突然南から本陣を奇襲した。本陣の西の山から駆け下りてきた兵もいた。油断していた今川軍は総崩れとなる。義元は300人の兵に守られて東へ逃げるが、兵は深田に足を取られて討たれ、義元はついに首を取られた。この戦いは一瞬の出来事で、死者は今川軍2,500人、織田軍830人であった。

○松平元康(まつだいらもとやす)(のちの徳川家康(とくがわいえやす))
当時今川家の人質だった元康は、大高城への兵糧入れ、鷲津・丸根砦の陥落を命じられ成功させた。
義元の死を機に今川家の支配から逃れ、岡崎城を拠点に独立を果たした。

○沓掛城址(くつかけじょうし)
【住所】沓掛町東本郷11
14世紀頃、近藤宗光(こんどうむねみつ)が初代城主としてこの地に住み、桶狭間の戦いの前日に義元が入城し、尾張大攻撃の準備をした城と伝えられています。

◆信長はなぜ大金星をあげることができた?
信長は兵を二手に分けたとされています。一手は佐々・千秋隊で、今川軍の先頭と桶狭間村P2図の(1)で昼頃戦いました。義元は兵を先頭に送ったことで本陣は手薄となり、やがて先頭での戦いに勝った報せで喜び油断して酒宴を始めました。午後2時信長は南へ回り、突然本陣を奇襲し、今川軍は不意打ちで敗れました。佐々・千秋隊は信長の身代わりとなるおとりで、時間差二段攻撃であったと考えられます。

◆義元はなぜ油断して酒宴を開いた?
佐々・千秋隊は信長の紋の旗を馬上に掲げ今川軍先頭と戦いました。今川軍は信長の旗を掲げた武将を信長だと思い込み、討ち取った首は「信長の首」と義元へ報告したとされます。これにより義元は、信長の奇計にみごとに引っ掛かり、信長を討ったと確信して早くも祝宴を開いたのではないかと考えられます。

◆市内には桶狭間の戦いに関する史跡が多数あります。
ぜひ行ってみてはいかがでしょうか。

○戦人塚(せんにんづか)
【住所】前後町仙人塚1737
桶狭間(おけはざま)の戦いの戦死者約2,500人を供養した塚。450年以上経った現在でも曹源寺(そうげんじ)の住職が供養を続けています。昔は「駿
河塚(するがづか)」と呼んでいたと伝えられています。

○桶狭間古戦場伝説地(おけはざまこせんじょうでんせつち)
【住所】栄町南舘11
「桶狭間(おけはざま)の戦い」の古戦場伝説地。今川義元(いまがわよしもと)の墓など桶狭間の戦いにまつわる石碑が多数見られます。

※詳細は本紙をご覧ください。

とよあけ桶狭間ガイドボランティアでは、桶狭間古戦場伝説地に残る石碑の碑文、古文書、古地図、出土物を基に、両軍の行軍ルートと桶狭間合戦、その史跡類をガイドしています。
詳細は、とよあけ桶狭間ガイドボランティアホームページをご確認ください。

問合せ:とよあけ桶狭間ガイドボランティア(堀田)
【電話】0562-97-0534

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