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豊橋の家康をめぐる

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愛知県豊橋市

豊橋市内の徳川家康ゆかりの地を、2か月に1回の連載で学芸員が紹介します。今月号で最終回です。

最終回となる今回は、これまでの記事を振り返りながら、徳川家康と酒井忠次の東三河地域への関わりをまとめます。
家康は竹千代と称した幼少期から青年期にかけ、苦難に満ちた人質時代を送ったと言われています。竹千代の人質時代は、真喜(まき)姫という継母の実家であり、田原や大津(現在の老津町)周辺で勢力を持った戸田氏の策略によって、尾張の織田氏のもとへ送られたことで始まりました。その後、織田氏と今川氏の間で人質交換され、駿河へ移されました。なお、13歳の竹千代は安久美神戸神明社で鬼祭を見物したとも言われています。
桶狭間の戦いの後、永禄4年(1561)までに今川氏から独立した元康(家康)は、三河統一を目指して東三河へ進出しますが、西三河で発生した三河一向一揆の対応に苦心させられました。永禄7年春に一揆を治めた家康は、再び東三河に進出して吉田城を攻めます。今川氏から城の守備を任されていた大原(小原)肥前守は、翌年に城を家康へ明け渡しました。この時に酒井忠次が城代として入城し、家康が関東に移るまでの約25年にわたり、忠次と家次の親子が吉田城を拠点に東三河を統治しました。なお、家康と忠次は吉田城攻めの前後を中心に、周辺の寺社に対して規則を定めたものや権利を保障する文書を発行しています。
また、甲斐(山梨県)の武田信玄・勝頼の親子による東三河の侵攻が二度あり、吉田城の付近で戦いがあったといわれています。一度目は、家康が信玄に大敗した元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いの後、二度目は天正3年(1575)の勝頼による侵攻です。どちらも二連木城(仁連木町)から吉田城の間で戦いがありましたが、徳川勢はかろうじて守り抜き武田氏を撤退させました。吉田城を攻めきれなかった勝頼は2度目の戦いの後で長篠城を攻め、それが設楽ヶ原の戦いへと続きます。ちなみに、この地域には賀茂神社に残る伝承をはじめ、危機に遭遇した家康が神仏の加護で助けられたという言い伝えが多く残っています。
さて、酒井忠次は家康より15歳上であり、家康の叔母にあたる碓井(うすい)姫(吉田殿)を妻としていました。そのため、忠次に対する家康の信頼は大きく、それに応えるように忠次も家康を支えました。前記のとおり、家康が忠次を吉田城代にしたことは、その代表例だと考えられます。
実直な忠次は周囲の信頼も厚く、えびすくいで宴席を盛り上げるなど機知もある有能な人だったようです。また、家康の重臣として家臣たちをまとめ、他の大名などとの交渉役も担っており、信長や秀吉などからも一目置かれていました。一方で、吉田城代として、この地域の統治とあわせ、周辺の国衆とよばれる地域の領主たちのまとめ役も担っていました。統治について、忠次は地域の人々の要請に対してきちんと対応していたことが古文書から伺えます。また、豊川に橋を渡し、豊川の沿岸には堤防を築造したほか、新田や大村井水(松原用水)の開発も行ったと伝えられています。国衆などのまとめ役としてのようすは、深溝(ふこうず)城(幸田町)の城主であった松平家忠の『家忠日記』から見ることができ、こちらも丁寧に対応していたことが伺えます。
最後に、家康とこの地域とのかかわりを7回にわたってお伝えしてきましたが、紹介しきれなかった話はまだまだあります。それはまたの機会に。

問合せ:文化財センター
(【電話】56・6060)

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