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家康をめぐる

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愛知県豊橋市

徳川家康の重臣筆頭である酒井忠次は、現在の岡崎市井田町付近の生まれです。酒井家は、松平家に長く仕える重臣の家柄で、家康よりも15歳年上だった酒井忠次は、家康の叔母である碓井姫(吉田殿)を妻にするなど、松平家と代々深く関わる家柄でもありました。
さて、前回は松平家の東三河侵攻と吉田城攻めを紹介しました。家康は永禄7〜8年(1564〜65)の吉田城主にしましたが、これは家康が家臣に城を与えた初めてのことです。そして、信頼できる重臣に東三河の要を任せることで、家康の遠江(現在の静岡県西部)進出が可能になりました。
家康が浜松城主、忠次が吉田城主をした務めた時期に、徳川家にとって最大の敵は甲斐(現在の山梨県)の武田信玄でした。武田氏の「西上作戦」により、東三河は2度にわたり攻撃を受けています。東三河への道は遠江からと東三河は2度にわたり攻撃を受けています。東三河への道は遠江からと南信州(長野県南部)からの2つのルートがあり、武田氏は、はるばると甲斐国から山河を越えて東三河をめざし、2つのルートから同時に侵入したのです。
武田信玄による元亀2〜4年(1571~73)にかけての侵攻では、家康は三方ヶ原の戦い(浜松市)での大敗を喫し、一時は二連木城(仁連木町、大口公園とその周辺)から吉田城まで攻め込まれたと言われます。しかし野田城の戦い(新城市)で信玄が健康を損ない(一説には城内から狙撃され)、武田軍は甲斐国に戻りました。さらに信玄の死後、武田勝頼による天正3年(1575)の2回目の侵攻では、家康と忠次は吉田城を出て二連木城近くの「はじかみ原」で戦い、退却して吉田城に堅く籠城しました。吉田城を攻めきれなかった武田氏は攻撃目標を奥三河の拠点・長篠城に改めたことが、酒井忠次の鳶ヶ巣砦の奇襲戦、そして有名な設楽ヶ原の戦いへと続いていきます。
こうしてみると、吉田城は籠城戦に使われてばかりに見えますが、見方を変えれば家康や忠次から絶大な信頼が置かれた城だった、ということです。東三河の中心拠点であった吉田城は、当時からかなりの規模の大きな城であったと発掘調査で推定されており、酒井忠次は、吉田城をかなり堅固な城に改造していたと考えられます。
武田氏を滅亡させた織田信長は、甲斐攻略戦の帰路に吉田城に立ち寄り、酒井忠次と夜更けまで語り合い、太刀真光(国宝、山形県・致道博物館蔵)と黄金二百両を与えています。家康の懐刀である忠次は、織田信長にとって信頼のおける武将だったのです。

問合せ:文化財センター
(【電話】56・6060)

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