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豊橋の家康をめぐる

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愛知県豊橋市

豊橋市内の徳川家康ゆかりの地を、2か月に1回の連載で学芸員が紹介します。

第5回 徳川家康と賀茂神社

賀茂(かも)神社(賀茂町)の創建は白雉(はくち)元年(650)や天平元年(729)と伝えられていますが、定かではありません。しかし、神社の敷地内にある神山古墳や周辺に遺跡があるため、古くから人々がいたことは確かです。記録としては、寿永3年(1184)に源頼朝が小野田庄(おのだのしょう)(賀茂・西郷地区周辺)を京都の賀茂別雷(かもわけいかづち)神社(京都市、上賀茂神社)の領地と認める古文書があり、これ以前には賀茂別雷神社の領地だったと思われます。
さて、徳川家康と賀茂のつながりは、家康の先祖である松平氏の時代からみられます。松平氏の原点は賀茂郡松平郷(豊田市松平町)にあり、その三代目である松平信光(のぶみつ)は岩津(岡崎市岩津町)に進出し、妙心寺を建立しました。同寺の阿弥陀如来像には、信光の親族が賀茂朝臣(あそん)を名乗っていたことを記した古文書が納められており、松平氏は自分たちを古代豪族の賀茂氏の子孫であると思っていたと考えられます。また、三つ葉葵といえば徳川(松平)氏の家紋を想像する方が多いと思います。賀茂氏の氏神とされる賀茂別雷神社では、神紋として古くから葵紋(二葉葵)が使用されていたようです。一方で、松平氏が葵紋を使い始めた時期は諸説あるため確定していませんが、松平氏は賀茂氏の子孫であるという意識をもって、葵紋を使用したのかもしれません。
ところで、永禄11年(1568)12月、家康は武田氏と協定を結び、井伊谷(いいのや)(浜松市引佐地区)から遠江(とおとうみ)(静岡県西部)へ攻め入りました。井伊谷へ向かう家康は賀茂神社を参拝し戦勝を祈願したといわれ、この時に大旗(おおはた)を奉納したとも伝えられています。これをよい先例とした家康は、天正元年(1573)の長篠城攻めの前にも参拝して大旗料を奉納し、同3年の長篠の戦い前には代参の人を派遣したと伝わっています。この大旗は、長さ約21m、幅約1.6mと非常に大きく、紺地に梵字などを白く染め抜いたもので、その姿は仏教の装飾品である幡(ばん)の形をしており、4月15日に開催されていた例祭のうち大旗神事で使用されました(現在は4月の第2土・日曜日に開催、幕末に制作した大旗を使用)。
なお、第4回では吉田城周辺をめぐる武田氏との攻防戦を紹介しました。元亀3年(1572)の年末に三方ヶ原の戦い(浜松市)で勝利した武田信玄は、そのまま遠江の刑部(おさかべ)(浜松市)で年を越し、軍勢を東三河に進めて野田城(新城市)を攻撃しました。家康は野田城に援軍を出しましたが、城は武田方に取られてしまい、敗れた家康は賀茂神社に逃げ込んだという伝承があります。敷地内にあるクスノキの穴や、神殿のなかに家康は隠れたといわれていますが、実際は神社の敷地内で休憩したのかもしれません。
また、これらの縁からか、家康は征夷大将軍となった慶長8年(1603)に、賀茂神社に対して100石の領地を保証しました。これは、砥鹿神社(豊川市)と並ぶもので破格の待遇でした。
第1回と第2回でも紹介したように、家康にまつわる言い伝えは各地に残っています。この機会に、これら伝承地を訪ねてみてはいかがでしょうか。

問合せ:文化財センター
(【電話】56・6060)

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